水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

とどく言葉

2009年02月25日 | 日々のあれこれ
 たとえば今日の朝日新聞社説に「暴力や脅しは許さない」と書いてあるのだが、いったい誰に向かって、どのような効果をねらって書かれたものなのだろう。
 たとえば以前、文科大臣が「いじめはいけません」とテレビで語っていたが、誰にむかって、どのような効果をねらって述べられたのだろう。
 ずいぶん前の話だが、文学者による「反核声明」というのがあって、なんかいろいろ議論があった(どんだけアバウトな話やねん)。
 それはつまるところ「言葉に力はあるのか」「暴力の前に言葉は無力なのか」という問いがあったのだと思う。
 (なんか、ちゃんと言えないレベルの話を無理やり書こうとしてる状態になってきたかも。)
 言葉でめし喰ってる人間としては書いておきたい。
 言葉が力をもつかどうかは、その言葉を用いる人の志によると言うしかないのではないかと思うのだ。
 今日の社説には(ていうかいつもだけど)、社説とはいったい何か、自分の書く言葉がどれだけ人にとどいているのか、という意識がまったく感じられなかった。
 あのときの文科大臣のことばには卑劣ささえ感じた。こんな顔で、ペーパーを読み上げられたのでは、いくらなんでも亡くなった子はうかばれないと思ったものだ。
 「9.11テロ」の直後に、たとえば○○市市議会が、テロ反対決議を行った。
 この決議なるものは、どんな効果があるのか。
 すくなくとも、テロリストが読んで、「やべえ、もうやめよう」と思わないことだけはたしかだ。
 ここまでは前置き。
 これも朝日新聞の文芸時評で、村上春樹がエルサレム文学賞を受賞したことについて、斉藤美奈子が「私は反対」と書いていてカチンときたのです。
 じゃあ、あんたは何をやったのか、と。
 日本にいて、ガザ侵略ってよくないよねえとか学生の前で語ってて、それで何か生み出すものはあるのか。
 すくなくとも村上春樹は、イスラエルの人たちの前で、「あんたら、ちょっとまずいんちゃうか」と語った。
 村上春樹の小説を実はあまり楽しめない派ではあるけれど、先日の受賞スピーチには心がふるえた(うー、なんでこんなつまんない表現しかできないのだ!)。
 教員というのは卵の側につくべきなのか、いやあえて壁になることも必要だろうなどとも考えた。
 村上氏の言葉に、何か感じるものはあったユダヤ人はいたはずだ。
 行動した人を、傍観している人があれこれ言うことだけはおかしいと思うのだ。
 
 
 
 
 
コメント (2)
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