音楽と文学とは言葉のひびきが似ていると言えなくもない。
その根本的な性質はけっこう似ていると言える。
横浜の野中先生のブログで次のエピソードを読んだ。
~ 小学生が参加する、ある音楽の会で、芥川也寸志さんが、小学生の女の子に質問をされたという。
「音楽は何のためにあるのですか?」
彼は答えたと言う。
「あなたのこれからの人生の中で、どうしても必要になるからですよ」
うまいことを言うなあと思った。 ~
音楽も文学も、人が生きていくうえで、どうしても必要なものではない。
この二つを必要とせずに生きている人はたくさんいる。
おそらく幸せな人が多いと思う。
自分の夢に向かって、なんのためらいもなく突き進んでいける人。
目標実現のために、日々の課題を毎日着実に消化していける人。
そんな人たちにとって、のんびり音楽を聴く時間などは必要ではない。
まして、主人公が女々しく(やべ、差別語?)うじうじと思い悩む小説など、読む気にさえならないだろう。
音楽も文学も、なければないですむものだ。
たとえば政治や経済の中枢にいる人で、そんなものは意識のうちにさえないという人もいるだろう。
その作り手も、もともとは日陰者だった。
ほんの数十年前まで、高校生が「文学部に進みたい」と言うと、「このごくつぶし!」と親に怒られたものだ。
今でこそ、ミュージシャンだ、作家だとちやほやされるけれど、本質は変わっていない。
うちに来ていただいているレッスンの先生にも、不況のあおりで仕事が減ったとおっしゃる方がいた。
最初にきられるのが、自分たちですよ、と。
でも、と思う。
人はパンのみに生くるにあらず。
ほんとうにめしが食えなくて、どうしていいかわからない時に、たまたま目にした一編の詩で、たまたま耳に入ってきたメロディーで、どん底から立ち直ることもあるのではないか。
ただ順風満帆な人生をおくるのではなく、人生のどこかで、音楽や文学を必要としてしまう経験をするくらいの方が、人間的と言えるのではないか。
などと、ほぼ毎日両方を必要としてしまう心の弱いオレとしては思うのだ。
その根本的な性質はけっこう似ていると言える。
横浜の野中先生のブログで次のエピソードを読んだ。
~ 小学生が参加する、ある音楽の会で、芥川也寸志さんが、小学生の女の子に質問をされたという。
「音楽は何のためにあるのですか?」
彼は答えたと言う。
「あなたのこれからの人生の中で、どうしても必要になるからですよ」
うまいことを言うなあと思った。 ~
音楽も文学も、人が生きていくうえで、どうしても必要なものではない。
この二つを必要とせずに生きている人はたくさんいる。
おそらく幸せな人が多いと思う。
自分の夢に向かって、なんのためらいもなく突き進んでいける人。
目標実現のために、日々の課題を毎日着実に消化していける人。
そんな人たちにとって、のんびり音楽を聴く時間などは必要ではない。
まして、主人公が女々しく(やべ、差別語?)うじうじと思い悩む小説など、読む気にさえならないだろう。
音楽も文学も、なければないですむものだ。
たとえば政治や経済の中枢にいる人で、そんなものは意識のうちにさえないという人もいるだろう。
その作り手も、もともとは日陰者だった。
ほんの数十年前まで、高校生が「文学部に進みたい」と言うと、「このごくつぶし!」と親に怒られたものだ。
今でこそ、ミュージシャンだ、作家だとちやほやされるけれど、本質は変わっていない。
うちに来ていただいているレッスンの先生にも、不況のあおりで仕事が減ったとおっしゃる方がいた。
最初にきられるのが、自分たちですよ、と。
でも、と思う。
人はパンのみに生くるにあらず。
ほんとうにめしが食えなくて、どうしていいかわからない時に、たまたま目にした一編の詩で、たまたま耳に入ってきたメロディーで、どん底から立ち直ることもあるのではないか。
ただ順風満帆な人生をおくるのではなく、人生のどこかで、音楽や文学を必要としてしまう経験をするくらいの方が、人間的と言えるのではないか。
などと、ほぼ毎日両方を必要としてしまう心の弱いオレとしては思うのだ。