学年だより「コミュニケーション力(2)」
自分がどの程度の「バカ」なのか、はたまた「賢者」であるのかは、コミュニケーションのありようによって測ることができる。
仲のいい友人とは楽しく会話できても、その輪の外側にいる人とは関わろうとしない人。
自分が知っていること、考えているものと反対の事象に接した時、「あり得ない」と心を閉ざす人。
納得できない時、理解しにくいことがあった時、その原因は全て自分以外にあると考える人。
世の中を見渡してみると、こういう人たちを見いだすのは難しくない。
むしろ、多かれ少なかれ、自分にもそういう面があったと振り返ることもできるだろう。
これらは、内田樹氏の言う「バカ」に該当する。
育ってきた環境もプレースタイルも、何より言葉が異なる外国の選手とコミュニケーションをとれるアスリートは、まさに「賢者」というべき存在だろう。
自然界の事象の不思議さを粘り強く解明しようとする科学者、既成の概念にとらわれず新しいものを生み出していこうと働く人たちは「賢者」だ。
~ すべての知的能力は、「バカ」と「賢者」の間のどこかに位置づけられる。
「英語ができる」ことが評価されるのは、英語ができるとコミュニケーションできる範囲が広がるからである。「コンピュータができる」ことが評価されるのは、コンピュータが本質的にコミュニケーション・ツールだからだ。「敬語が使える」ことや「礼儀正しい」ことや「フレンドリー」であることや「聞き上手」であることや「服装に気配りしていること」や「アイコンタクトが適切」であることなどの「面接の着眼点」はすべて「コミュニケーション能力」だけに焦点化している。 (Web「内田樹の研究室」より) ~
知らない人とはじめて会話するときに、どういう顔で、どういう話し方ができるのか。
知らないものごとに接したときに、どうすればわかりあえるのかと考えることができるか。
そういう発想になったとき、人は賢者側に近づく。理解できないから、気に入らないからといって、不満を他人にぶつけ、わめき叫ぶのは、幼子と同じだ。
物事に対するそういう姿勢は、コミュニケーション能力という形で顕在化する。
~ どうしてコミュニケーション能力がそれほど厳密に査定されるかと言えば、会社に入ったあと、仕事を教わるときにコミュニケーション能力のない人間は、「自分の知らないことを学ぶ」ことができないからである。「仕事ができる人」というのは「たっぷりと手持ちの知識や技能がある人」のことではなく、「自分が知らないことを学び、自分に出来ないことが出来るようになる能力がある人」のことなのである。 ~
入試や就職の面接という短い時間の中に、その能力ははっきりと現れる。