学年だより「将来とは」
今学期の終わりには、文系・理系の決定という大切な選択をする時期を迎える。
漠然と目の前の勉強をするだけでなく、将来を見据えて何をするべきかを考える気持ちもこれからは必要だ。
10年後、20年後の自分の姿を想像するのは難しい。10年後、20年後の世の中をイメージするのは、もっと難しい。
10年前に、知識人とよばれる人たちが何を述べていたかを検証すれば、なるほど「頭がいい」はずの人たちでさえ、10年後を予想できないのかとわかる。
将来像とは、あくまでも現時点の自分たちの能力の枠組みのなかでしか想像できないもので、しかもそうなるかどうかの確信をもつことが誰にもできない、不確かなものだ。
だからといって、個人が将来像を思い描く必要はないということにはならない。
明日のこと、一週間後のこと、一年後のこと、つまり、強い確かさをもって想像できる身近な未来の積み重ねのうえに、将来は成立するものだからだ。
たとえば明日の自分がどう生きているかは、かなり正確に想像できるのではないだろうか。
一週間後なら、どうか。一ヶ月後、一年後は。
今の自分と一ヶ月の自分、半年後の自分と3年後の自分とは、かなり似ているにちがいない。
今の自分のまま高校2年、3年になったことを想定したとき、今の過ごし方が正しいのかどうか、見えてくる。
~ 頭のいい人とは、自分の人生に向かって最短距離を歩んでいる人。
頭の悪い人とは、自分の人生目標に対して遠まわりしている人。
「頭の悪い人々」も大きな二種類のタイプに分けられるような気がします。それは、
人生目標そのものを持っていない人。
人生目標を持ってはいても、遠まわりしている人。
いずれにしろ、人間がバカか利口かを判断する基準は、その人の人生目標に照らしてあわせて考えなければならない相対的なものであり、絶対的なものではありません。 (藤沢晃治『頭の悪い人』三笠書房) ~
「ジュースを飲もう」と言った人が、パンの自動販売機前に立っている。
大宮に出かけようとしている人が、南古谷の1番線で電車を待っている。
次の試合までに減量しなければならない人が、ミスドでどか食いしている … 。
こんな友人を見かけると、「あいつ、頭ヤバくないか … 」という感想を抱く。
パンが食べたいならパンの自販機に向かうべきだし、川越へ行こうとして下り電車を待つのは正しいことは誰でもわかるのだが、こと人生のスパンになると、人はおバカになりがちだ。