二段落(4~7)
4 自分の部屋は二階で、隣のない、わりに静かな座敷だった。読み書きに疲れるとよく縁のいすに出た。わきが玄関の屋根で、それが家へ接続する所が羽目になっている。その羽目の中に蜂の巣があるらしい。虎斑の大きな太った蜂が天気さえよければ、朝から暮れ近くまで毎日忙しそうに働いていた。蜂は羽目のあわいからすり抜けて出ると、ひとまず玄関の屋根に下りた。そこで羽や触角を前足や後ろ足で丁寧に調えると、少し歩き回るやつもあるが、すぐ細長い羽を両方へしっかりと張ってぶーんと飛び立つ。飛び立つと急に早くなって飛んでいく。植え込みのやつでの花がちょうど咲きかけで蜂は〈 それ 〉に群がっていた。自分は退屈すると、よく欄干から蜂の出入りを眺めていた。
5 ある朝のこと、自分は一匹の蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へ垂れ下がっていた。〈 ほかの蜂はいっこうに冷淡だった 〉。巣の出入りに忙しくそのわきをはい回るが全く〈 拘泥 〉する様子はなかった。忙しく立ち働いている蜂はいかにも生きているものという感じを与えた。そのわきに一匹、朝も昼も夕も、見るたびに一つ所に全く動かずにうつ向きに転がっているのを見ると、〈 それ 〉がまたいかにも死んだものという感じを与えるのだ。それは三日ほどそのままになっていた。それは見ていて、いかにも静かな感じを与えた。寂しかった。ほかの蜂がみんな巣へ入ってしまった日暮れ、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見ることは寂しかった。しかし、それはいかにも静かだった。
Q12 「それ」とは何か。20字以内で記せ。
A12 ちょうど咲きかけの植え込みのやつでの花
Q13 「ほかの蜂はいっこうに冷淡だった」に用いられている表現技法は何か。
A13 擬人法
Q14 「拘泥」の読み方と意味を記せ。
A14 こうでい こだわること
Q15 「それ」とは何か。25字以内で記せ。
A15 一つ所に全く動かずにうつ向きに転がっている蜂。
Q16 「自分」が「蜂の死骸」を気にかけていることが表されている表現を5段落から抜き出せ。
A16 朝も昼も夕も、見るたびに
行 蜂の出入りを眺める
↓
事 死んだ蜂 を見かける ←→ 生きてはたらいている蜂
∥ ∥
いかにも死んだもの いかにも生きているもの
↓
行 朝昼晩見る
↓
心 寂しかった いかにも静かだった
6 夜の間にひどい雨が降った。朝は晴れ、木の葉も地面も屋根もきれいに洗われていた。蜂の死骸はもうそこになかった。今も巣の蜂どもは元気に働いているが、死んだ蜂は雨どいを伝って地面へ流し出されたことであろう。足は縮めたまま、触角は顔へこびりついたまま、たぶん泥にまみれてどこかでじっとしていることだろう。外界にそれを動かす〈 次の変化 〉が起こるまでは死骸はそこにじっとしているだろう。それともありに引かれていくか。〈 それにしろ、それはいかにも静かであった 〉。せわしくせわしく働いてばかりいた蜂が全く動くことがなくなったのだから静かである。自分はその静かさに親しみを感じた。自分は『范の犯罪』という短編小説をその少し前に書いた。范という中国人が過去の出来事だった結婚前の妻と自分の友達だった男との関係に対する嫉妬から、そして自身の生理的圧迫もそれを助長し、その妻を殺すことを書いた。それは范の気持ちを主にして書いたが、しかし今は范の妻の気持ちを主にし、しまいに殺されて墓の下にいる、その静かさを自分は書きたいと思った。
7 「殺されたる范の妻」を書こうと思った。それはとうとう書かなかったが、自分には〈 そんな要求 〉が起こっていた。〈 その前からかかっている長編 〉の主人公の考えとは、それは大変違ってしまった気持ちだったので弱った。
Q17 「次の変化」とあるが、「蜂の死骸」を動かした最初の「変化」は何か。10字程度で記せ。
A17 夜の間に降ったひどい雨
Q18 「aそれにしろ、bそれはいかにも静かであった」とあるが、二つの「それ」がさしている内容を、それぞれ示せ。
A18 a 蜂の死骸がありに引かれていくこと。
b 蜂の死骸
「そんな要求」について、
Q19 どんな要求か。20字以内で記せ。
A19「殺されたる范の妻」を書こうという要求。
Q20 なぜそのような要求が起きるのか。20字以内で説明せよ。
A20 死の静かさに親しみを感じていたから。
Q21 「その前からかかっている長編」は、どのような作品だと推定できるか
A21 生への希望を見いだす主人公を描く作品
事 死んだ蜂は流されてしまった
心 死んだ蜂の静かさに親しみ
↓
「殺されたる范の妻」を書こうという要求
∥
死の静かさに対する親しみ
↑
↓
その前からかかっている小説「暗夜行路」
出生の秘密・妻の不義に悩む主人公が、
最後はすべてを受け入れて生きようとする作品