学年だより「努力と才能」
「落合陽一は誰よりも研究しているし秋元康は誰よりも詞を書いている……」と述べる箕輪厚介氏も、傍から見れば圧倒的な努力をしている編集者だ。
しかし、彼らは努力しようとしているのだろうか。
~ SHOWROOM前田裕二の実像は、「芸能人と付き合う華々しいスーパー金持ち」なんかでは決してない。彼は会食して3次会まで付き合ったあと、そこから近場のカフェに移動して朝5時まで仕事をしている。そして翌朝9時には会議に出ている。「こんなに自分に負荷をかけてまで、この人は何を成し遂げたいのか」と思うほどだ。 (箕輪厚介『死ぬこと以外かすり傷』) ~
「努力しよう」「やらなければならない」という感覚では、おそらく成功者と言われる人たちのような暮らしは成り立たない。
それはスポーツや芸術の世界でも同じだ。
プロとして活躍できる人、中でも一流とよばれるプレイヤーたちは、「圧倒的な努力」をしている、……ように見える。
おそらく彼らの中では、それは日常であり、歯磨きをしないと気持ち悪いのと同じように、ふつうに練習しているだけだ。
彼らのしていることを「努力」とよんでいる時点で、私たちは凡人なのかもしれない。
彼らには「才能」があったから成功できたのだとも、凡人はいう。
有名なピアニストになれるのは特別な才能をもつ人だけ、ノーベル賞に輝くような科学者になれるのは生まれつき頭のいい人だけ、プロスポーツのトッププレーヤーになれるのは類い希な運動センスと能力を生まれ持った人だけ……。
もちろん、学問も芸術もスポーツも、努力によって一定のレベルには達することができる、しかしプロレベルに達するには持って生まれた才能が必要だと。
才能についての私たちの理解は、いや科学研究の世界でも、このように考えられていた。
人間の脳は、生まれたときから回路はほぼ決まっていて、そのあり方で発現する能力も決まる。
それぞれの回路に適した練習を積むことによって発揮されるのが才能であると。
~ 脳の研究者は1990年代以降、脳には(たとえ成人のものであっても)それまでの想定をはるかに超える適応性があり、それゆえにわれわれは脳の能力を自らの意思でかなり変えられる、ということを明らかにしてきた。とりわけ重要なのは、脳は適切なトリガー(きっかけ)に反応し、さまざまなかたちで自らの回路を書き換えていくことだ。ニューロン(神経単位)の間に新たな結びつきが生じる一方、既存の結びつきは強まったり弱まったりするほか、脳の一部では新たなニューロンが育つことさえある。 (アンダース・エリクソン『超一流になるのは才能か努力か?』文藝春秋)
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最近の科学研究では、従来の常識が覆されているのだ。