一段落(1~3)
1 山の手線の電車に跳ね飛ばされてけがをした、その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出かけた。背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんなことはあるまいと〈 医者に言われた 〉。二、三年で出なければ後は心配はいらない、とにかく要心は肝心だからと言われて、それで来た。三週間以上――我慢できたら五週間くらいいたいものだと考えて来た。
2 頭は〈 まだなんだかはっきりしない 〉。物忘れが激しくなった。しかし気分は近年になく静まって、落ち着いたいい気持ちがしていた。稲の取り入れの始まるころで、気候もよかったのだ。
3 一人きりでだれも話し相手はない。読むか書くか、ぼんやりと部屋の前のいすに腰かけて山だの往来だのを見ているか、それでなければ散歩で暮らしていた。散歩する所は町から小さい流れについて少しずつ上りになった道にいい所があった。〈 山のすそを回っている 〉辺りの小さなふちになった所にやまめがたくさん集まっている。そしてなおよく見ると、足に毛の生えた大きな川がにが石のようにじっとしているのを見つけることがある。夕方の食事前にはよくこの道を歩いてきた。冷え冷えとした夕方、寂しい秋の山峡を小さい清い流れについていくとき考えることはやはり沈んだことが多かった。寂しい考えだった。しかし〈 それ 〉には静かないい気持ちがある。自分はよくけがのことを考えた。一つ間違えば、今ごろは青山の土の下にあお向けになって寝ているところだったなど思う。青い冷たい堅い顔をして、顔の傷も背中の傷もそのままで。祖父や母の死骸がわきにある。それももうお互いに何の交渉もなく、――〈 こんなこと 〉が思い浮かぶ。それは寂しいが、それほどに自分を恐怖させない考えだった。〈 いつかはそうなる 〉。それがいつか?――今まではそんなことを思って、その「いつか」を知らず知らず遠い先のことにしていた。しかし今は、それが本当にいつか知れないような気がしてきた。自分は死ぬはずだったのを助かった、何かが自分を殺さなかった、自分にはしなければならぬ仕事があるのだ、――中学で習った『ロード・クライブ』という本に、クライブがそう思うことによって激励されることが書いてあった。実は自分も〈 そういうふうに危うかった出来事を感じたかった 〉。そんな気もした。しかし〈 妙に自分の心は静まってしまった 〉。自分の心には、何かしら死に対する親しみが起こっていた。
Q1 「医者に言われた」とあるが、医者の話を二つ抜き出し、最初と最後の5字ずつを記せ。
A1 背中の傷が ~ はあるまい 二、三年で ~ 肝心だから
Q2 「まだなんだかはっきりしない」とあるが、いつ以来こうなのか。20字以内で記せ。
A2 電車に跳ね飛ばされてけがをして以来。
Q3 「山の裾を回っている」の主語を本文中から抜き出せ。
A3 小さい流れ
Q4 「それ」の指す内容を本文中から抜き出せ。
A4 寂しい考え
Q5 「こんなこと」の指す内容を本文中から抜き出し、最初と最後の5字ずつを記せ。
A5 青い冷たい~交渉もなく
Q6 「いつかはそうなる」とあるが、どうなることか。10字以内で記せ。
A6 自分が死ぬこと。
Q7 「そういうふうに危うかった出来事を感じたかった」とあるが、「どういうふう」にか。
該当する部分を本文中から抜き出し、最初と最後の五字ずつを記せ。
A7 自分は死ぬ~があるのだ
「妙に自分の心は静まってしまった」について、
Q8 その理由と考えられる一文を抜き出せ。
A8 自分の心には、何かしら死に対する親しみが起こっていた。
Q9 なぜ「妙」だというのか。60字以内で説明せよ。
A9 せっかく事故から助かったにもかかわらず、それを前向きにとらえるよりも、
むしろ死に対する親しみを感じているから。
Q10 城の崎温泉に来てからの「自分」の心境を端的に表す語を文中から10字で抜き出せ。
A10 落ち着いたいい気持ち
Q11「妙に自分の心は静まってしまった」とはどのような心境か、80字以内で説明せよ。
A11 大事故をきっかけに、自らの死を現実感のともなった身近なものと感じるようになり、
恐怖よりも親しみさえ感じている自分にとまどいながらも、素直に受け入れている状態。
事件 電車事故のけが
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城崎温泉での後養生 ☆作者の実体験に基づく
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心情 落ち着いたいい気持ち
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行動 一人で寂しく過ごす
沈んだことを考える
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心情 静かないい気持ち
死に対する親しみ