2学年だより「論理的思考」
宇佐美寛氏(千葉大学名誉教授)の「論理的思考」という講義の記録が書物化されている。
一年間の講義がはじまる最初の回で、宇佐美氏は学生たちにこう語り始める。
~ ふつう、このように一つの科目の授業を始めるときには、まず「論理的思考」とは何かを話すのでしょう。つまり、まず表題に出るような重要な概念の説明くらいは十応する場合が多いようです。しかし、私は、そういう理屈をしゃべってみても、無駄だと思っています。特に、最初の時間からそういう話をするのはまったく無意義です。 ~
なぜか。それは「学習者がたるむから」だという。
「論理的思考とは、これこれこういうものだ」と、壇上から教えてくれる。
時に具体例をあげ受講生の反応を確かめながら、わかりやすく話をすすめていく。
教える側は大変な準備をし、一方聴いている側はリラックスして身をゆだねている……。
そういう講義を、受ける側は「たるんでいる」のだと。
もちろん授業を受ける側としては「自分ではたるんでなどいない」と思っている者も多い。
しかし、それは緊張しているだけであって、講義を聴くという行為は基本的に「楽」なのだ。
~ 楽であることも出来る勉強は受け身の勉強であり、身につくものが少ないのです。自分の頭を酷使せざるを得ない「しんどい」勉強でなければ身につきません。「勉強」とは、文字通り「勉め強いることなのです。 ~
だから、宇佐美氏は「論理的思考とはこういうものだ」と、いきなり教えるようなことはしない。
そして、かりに説明したところで、学生には伝わらないと言う。
言葉で話したところで伝わるものではないからだ。
~ これは、ちょうど水泳を言葉で語って教えようとするのに似ています。言葉での話を聞いていても、泳げるようにはなりません。また、その理由、つまり、なぜ話を聞いていても泳げるようにならないのかという理由を言葉で理解させることも出来ません。なぜ話だけではだめなのかという話がわかるのは、すでに泳げるようになっている人です。いいかえれば泳げる人だけが、泳げるというのはどういうことかを実感しているのです。また泳ぐという経験と泳ぎについての言葉とがどう違っているかを知っているのです。
とにかく、自分で泳ごうとすることによってのみ泳げるようになるのです。努力を要する経験、を自らすることが必要です。 (宇佐美寛『論理的思考』メヂカルフレンド社) ~
「論理的思考」も同じで、経験のない人に概念だけ教えても、そもそもわからないのだ。