水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

取り出し授業

2021年09月07日 | 教育に関すること
~ 「取り出し」授業に強い違和感  小学校教員 大和俊広(神奈川県45)
 「取り出し学習・授業」という言葉をご存じだろうか?外国にルーツがある子どもの日本語指導や、一斉授業での学習に課題がある子どもを別室で個別に指導することを言う。私は人間に対して「取り出す」という言葉を使うことに違和感を感じ、職場でも問題提起してきた。
 本来は、教室での支援が困難で、子ども自身が希望した場合に例外的に行われる「個別学習・授業」であ
るはずだ。この言葉が定着したことは、「取り出す」側である大人や教員の思惑によって学習・授業が行われている証左ではないだろうか。実際、担任が親の許可を得て、特定の子どもを説得し行う場合が多い。
 「取り出し授業」という言葉には、上からの「あなたのために、足りない力をつけてあげる」という、能力偏重のにおいを感じる。学校は子どもたちの「生活の場」であり、「できる、できない」にとらわれ過ぎない、子どもと教員が楽しいと思える授業・学校づくりこそ肝要なのだ。子どもは物ではない。「取り出し」という言葉を安易に受け入れてしまう学校現場は、子どもの人権や能力主義について、真摯に考え議論する必要があると思う。(朝日新聞「声」欄 2021年8月31日) ~


 という投稿があった。
 いやぁ、ちがうんじゃない? と思ったので反論を送ったが、載らないのでここへ。


 「『取り出し』授業に強い違和感」という意見を読み、「取り出し」という言葉よりも、大和俊広氏の主張に違和感を覚えた。
 「取り出し」が定着したのは、学校現場に「能力偏重」の考え方があるからだと大和氏は言う。学校が能力を偏重して何が悪いのだろうか。「読み書きそろばん」を身に付けさせることで、人としての成長の一端を担うのが学校ではないのか。優しさや逞しさを育てたいとの願いは、私達教員は誰しも持っている。しかし、まず基本となる「読み書きそろばん」、いわば知の基礎を教えることが第一の学校の役割だ。託児所とは役割が異なる。
 外国からきた児童に、「取り出し学習」で日本語を教えて、何が悪いのか。言葉がわからないまま教室にいさせられて、学校が楽しく感じられるとは思えない。何らかの事情で学習が遅れている子も同じだ。字も書けない、簡単な計算もできないまま教室にいて楽しいはずがない。ましてそのまま卒業させては、娑婆を生きていけない。
 大事なのは名称ではなく、その中身だ。取り出されたことで、「できない子」「面倒な子」扱いになる雰囲気が現場にあるから、マイナスのニュアンスが生じているのだ。児童が、自分から「取り出し」を希望するような学習の「中身」をつくればいい。大和氏が言う「楽しいと思える授業・学校」にするには、表面的な「楽しさ」ではなく、まず生きる力の土台となる能力をつけさせてあげることが第一だと考える。(埼玉県・高校教員)
コメント
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