講習2クール目の現代文で小説を3題解く。
50分で一題読み、解説も終えないといけないので、自分のなかでは「ぐたいぶつは何のためにあるのか」ポイントをしぼっている。
「この具体物は何の象徴なのか」
この一点のみを表現している作品もあるし、重要な小道具として扱われているものもある。
今回は、林京子、中里恒子、高井有一の小説で、それぞれ「抜けた歯」「男下駄」「コロッケ」の象徴性を読み取る。
ふつうの高校生は、いや大人でも、相当の読書人でも、自分からは絶対に読まずに人生を終える作品で、ふつうに読んだだけでは、おそらく相当に退屈する。
一学期に「羅生門」で下人の「にきび」は何を表現しているかを勉強した。
その見方を、さらに身につけさせて、小説のなかの「物」はたんなる物ではなく、なんらかの思いがこめられていることに気づいてもらう。
すると一見つまらない作品でも、少しは面白くなるよと言ってみたい。
先日観た「海猿」がストレートに面白かったことは十分に認めたうえで、あえて物足りない点をあげるとすれば、ぜんぶ説明されてしまっていたことだ。
悲しい人は悲しいと言い、悲しいと泣く。
うれしい人はうれしいと言い、うれしがる。
仲間が大事だと考える人は「仲間が大事だ」と言い、そのままに行動する。
この映画はこんなふうにも見ることができるよ、というような曖昧さがまったくない。
観客に想像するヒマを与えず、ほんとにわかりやすい。
あそこに置いてあったあの模型がねとか、あのイスは実はとか、そういう深みがないように思えた。
ひょっとしたら気づけなかっただけかもしれないが。
あいまいさが全くない作品は、説明したりない部分がもしあると、そのまま観る側は理解不足になる危険性がうまれる。
観る側が自分で想像する手間を惜しむようになってしまうから。
全部説明しようとすることで、かえって説明不足になるというパラドクスがうまれるとも言える。
テレビドラマをベースに映画化された作品には、こういう傾向があるかもしれない。
午後。1年生をあつめ、昨日の講評用紙を読み、もういっかい基礎から徹底的にやっていこうと話す。
上級生はバンドレッスンをしていただき、残り一週間でどうつめていけばいいかを確認した。
計算上は大丈夫なはずの二曲通してのタイムだが、急に心配になったので先日のプレコンクールの映像を見直してみた。
まったく大丈夫だ。もっと歌っても大丈夫。それより自分がぜんぜんふれていない。
たんなるヨーイドン係ではなく、音楽係にもなっていくのが今後の自分の課題とわかった。