水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

やりたいことノート(5)

2021年09月08日 | 学年だよりなど
1学年だより「やりたいことノート(5)」


 自分の「好き」を探してみると、その源は「経験」にあることに気づく。
 好きな食べ物は、当然のことながら食べたことのあるものから見つけるし、好きな場所は、行ったことのある場所の中から探している。
 好きな人は、会ったことのある人、見たことのある人から選ぶ。
 好きなモノは、そのとき一緒にいた人が好きだから好きになった、という場合もあるだろう。
 「好き」の総体が本当の自分であるなら、「経験」が自分を作っているということになる。
 今の自分は過去の積み重ねでできている――。
 考えてみれば、あたりまえかもしれない。しかしそれは、これからどんな経験をするかで、未来の自分が決まるということでもある。
 未来の自分は、今の自分の意思で好きなように作ることが可能なのだ。


~ 消費には2種類ある。「モノ」消費と「経験」消費である。例えば、高価な車や時計を買うことは「モノ」消費であり、旅行に行くことや、コンサートを鑑賞することにお金を使うのは「経験」消費だ。研究によれば、人を幸せにするのは「経験」消費のほうだという。
 購入前の心理のフォーカスを当てた別の研究でも、未来の経験に関する購入について考えた時の方が興奮度や喜びの点で優っていた。買う予定のブランドバッグについて考えることよりも、来月の旅行のほうが楽しみだし、考えるだけでテンションが上がる、という人のほうが多いのだ。この研究では、経験に関する購入のほうが、より長く幸福度に寄与することもわかっている。研究者らによると、人間には経験に適応するのは遅く、モノに適応するのは早いという特性があるからだという。高価なモノを買って得られた喜びはすぐ減衰してしまうのに対し、経験を通して得た喜びには持続性がある、ということらしい。 (Testosteeone『幸福の達人』自由国民社)~


 これからどんな経験をするかで、どんな自分になっていくかが変わる。
 それを予感できるからこそ、「こんな経験をしたい」と考えることが、幸福感を生み出すのだろう。
 どこへ行きたい、誰に会いたい、何をやってみたい……、と書き出してみて、それを実現するために必要なことを考えると、自分のやりたいこと、やるべきことが見えてくる。
 まずは、いま自分がいる場所で出来る経験は大事にしておこう。
 「経験」は、ただやっただけだと印象は薄れていくが、ノートにメモすると蓄積される。
 なぜ自分がそれが好きなのか、どこが面白かったのか、なぜ泣けたのかがわかる。
 たとえば映画を観る。
 同じ作品を見て、全く心動かされない人もいれば、感動にふるえ涙がとまらない人もいる。
 ある人は主人公に感情移入し、ある人は主人公のおかれた社会に怒りを覚える。
 主人公のような仕事につきたいと思い立つ人もいれば、演じる側になりたい、もしくは映画を作る側になりたいと思う人など、人によって感じ方は異なる。それが個性だ。
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取り出し授業

2021年09月07日 | 教育に関すること
~ 「取り出し」授業に強い違和感  小学校教員 大和俊広(神奈川県45)
 「取り出し学習・授業」という言葉をご存じだろうか?外国にルーツがある子どもの日本語指導や、一斉授業での学習に課題がある子どもを別室で個別に指導することを言う。私は人間に対して「取り出す」という言葉を使うことに違和感を感じ、職場でも問題提起してきた。
 本来は、教室での支援が困難で、子ども自身が希望した場合に例外的に行われる「個別学習・授業」であ
るはずだ。この言葉が定着したことは、「取り出す」側である大人や教員の思惑によって学習・授業が行われている証左ではないだろうか。実際、担任が親の許可を得て、特定の子どもを説得し行う場合が多い。
 「取り出し授業」という言葉には、上からの「あなたのために、足りない力をつけてあげる」という、能力偏重のにおいを感じる。学校は子どもたちの「生活の場」であり、「できる、できない」にとらわれ過ぎない、子どもと教員が楽しいと思える授業・学校づくりこそ肝要なのだ。子どもは物ではない。「取り出し」という言葉を安易に受け入れてしまう学校現場は、子どもの人権や能力主義について、真摯に考え議論する必要があると思う。(朝日新聞「声」欄 2021年8月31日) ~


 という投稿があった。
 いやぁ、ちがうんじゃない? と思ったので反論を送ったが、載らないのでここへ。


 「『取り出し』授業に強い違和感」という意見を読み、「取り出し」という言葉よりも、大和俊広氏の主張に違和感を覚えた。
 「取り出し」が定着したのは、学校現場に「能力偏重」の考え方があるからだと大和氏は言う。学校が能力を偏重して何が悪いのだろうか。「読み書きそろばん」を身に付けさせることで、人としての成長の一端を担うのが学校ではないのか。優しさや逞しさを育てたいとの願いは、私達教員は誰しも持っている。しかし、まず基本となる「読み書きそろばん」、いわば知の基礎を教えることが第一の学校の役割だ。託児所とは役割が異なる。
 外国からきた児童に、「取り出し学習」で日本語を教えて、何が悪いのか。言葉がわからないまま教室にいさせられて、学校が楽しく感じられるとは思えない。何らかの事情で学習が遅れている子も同じだ。字も書けない、簡単な計算もできないまま教室にいて楽しいはずがない。ましてそのまま卒業させては、娑婆を生きていけない。
 大事なのは名称ではなく、その中身だ。取り出されたことで、「できない子」「面倒な子」扱いになる雰囲気が現場にあるから、マイナスのニュアンスが生じているのだ。児童が、自分から「取り出し」を希望するような学習の「中身」をつくればいい。大和氏が言う「楽しいと思える授業・学校」にするには、表面的な「楽しさ」ではなく、まず生きる力の土台となる能力をつけさせてあげることが第一だと考える。(埼玉県・高校教員)
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やりたいことノート(4)

2021年09月05日 | 学年だよりなど
1学年だより「やりたいことノート(4)」


 自分の好きなものをあげようとして、気がつくと他人の軸で判断している場合がある。
 わたしたちには、周りの空気感にあわせようとする感覚がしみついているからだ。
 自分の本当の部分に目をつぶり、他人からの見え方を気にしすぎたり、親や先生の価値観に「素直に」なりすぎたりしない方がいい。
 自分が「好きなもの」を書き出す作業は、自分を知るための一番基本の作業だ。
 たとえば好きな食べ物は何か? その何が好きなのか? 味?、香り?、食感? 見た目?
 そこから、好きな食材、調理法、盛り付け、お店、飲み物、スイーツ……と広げてみる。
 好きな場所、季節、景色、洋服、本、映画、ドラマ、番組、サイト、アプリ……。
 好きな芸能人、芸人、俳優、ジャニーズ、店員さん、クラスメイト、グッズ、イベント……
 好きな教科、単元、学問分野、スポーツ、部活動、遊び、ゲーム、遊具、行事、……。
 「好き」を、「落ち着く」「あがる」「ドキドキする」「せつなくなる」などに置き換えてみると、よりイメージがわきやすいかもしれない。
 みんなが好きと言いそうなもので、自分ではそうでもないところが、個性だ。
 みんなが「ええっ?」と言いそうなものが気になってしょうがないいのは、個性だ。
 恥ずかしがらずに、正直に開き直って、それらを書き出してみる。どんな様式でもいい。
 そうやって書き出したものを、齋藤孝氏は「偏愛マップ」と呼ぶ。


~ 偏愛マップはいうならば、自分自身の“見える化”です。
「自分の世界を持っている」と自他ともに認めるような人は、例外なく、偏愛するものもたくさん持っています。
 偏愛の数が問題だというわけではありませんが、一つの世界に深く心を奪われると、自然に、その世界に関連するものから偏愛するものがいくつも出てくるし、偏愛は偏愛を呼び、ますます偏愛が増殖していくからです。
 偏愛マップをつくると、自分の偏愛の総体が見えてきます。それをしっかり意識する。その結果、自分自身が立体的になり、リアルな存在として見えてくるはずです。
 鏡に映る姿は二次元映像。ふだんの自己認識は鏡に映した姿のように、前を向いた自分だけ。 後ろを向いたとしても、平面的な映像しか見えません。
 偏愛マップに映し出される自分像は3D映像のように奥行きと拡がりをともなった自分自身。 時間軸も加えると四次元映像で、影もあればヒダもある。奥行きもある、歴史もある、より正確な自己像だといえます。
   (齋藤孝『偏愛力 人付き合いがうまくいくコミュニケーションの基本50』大和書房) ~


 自由に、好きに書いたそれぞれの「偏愛マップ」は、この世に一つとして同じものがない。
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やりたいことノート(3)

2021年09月02日 | 学年だよりなど
1学年だより「やりたいことノート(3)」


 すでに「やってしまってる」人もいるかもしれない。興味のあること、好きなこと、趣味の分野で、一冊のノートがある人は、それが将来の自分のベースキャンプになっていくだろう。
 『ワラグル』という小説は、放送作家としても活躍する浜口倫太郎氏の作品だ。お笑い界を舞台にして、芸人や周辺の人達をめぐる、虚実皮膜の物語が描かれる。


~「そうだよね。KOM(キングオブ漫才)の凄さって漫才を競技化したことなんだよね」
 「競技化って?」
 「まあスポーツにしたってことだよ。だってKOMってスポーツ見てるみたいじゃない。甲子園とかワールドカップとかオリンピックの試合みたいに白熱するでしょ」
 「確かに」
 「この競技化のおかげで、スポーツ観戦するようにみんな漫才を見るようになったんだ。そこからドラマも産まれるでしょ。KOMを見て漫才師を志す人が増えて、さらに漫才が進化して面白くなる。相乗効果ってやつだね」
 文吾が思わず感心する。
 「梓って賢いね」
 「でしょ。まぁお笑い限定ですが」  (浜口倫太郎『ワラグル』小学館) ~


 文吾は、コンビニバイトで知り合った梓が、並々ならぬお笑い好きであることを知る。
 梓は、いわゆる「ハガキ職人」とよばれる投稿マニアで、兄弟の漫才コンビ花山家の深夜ラジオでは常連だった。花山家は、自分たちの座付き作家を募集するとラジオで告知する。すぐに梓は応募し、いくつかの課題をクリアして最終選考に臨む。


~ 最終テストの花山家の漫才を作るために、テレビで花山家の漫才を見ていた。もう何度も何度も見ているのでネタも完璧に覚えてしまった。
 テーブルの上には、梓がその漫才を手書きで写したノートがある。自分が発見したポイントなどを赤字で書き込んでいるので、もうノートがまっ赤だ。台詞の文字数やボケとツッコミの間の秒数まで書き込まれている。
 そんな細かなところにまで目を向けるのかと文吾は唖然とする。梓と付き合いはじめてから文吾も数多くの漫才に触れてきたが、自分は何も見ていないことがよくわかる。
 梓ぐらい目が肥えてはじめて、漫才の本質が理解できるのだろう。見るではない。観るのだ。 ~


 梓は、日頃からハガキのネタになりそうなことを思いつくたび記録していた。テレビやライブで見たネタや面白い話を、ノートに書き留めては分析していた。
 自分が本気で興味をもったこと、本気で取り組んでいることなら、それに関するノートが何冊もあるのは「普通の」ことだ。部活動でも、ノートをたくさん書いている人は間違いなく伸びる。
 何事も、ノートをつくることから、自分の本気がはじまると言えるだろう。


 分散登校で利用する電車が変わると、前よりも混雑する路線もあるでしょう。
 今までは見かけなかった、車いすの方や、小さい子供さんと接する機会もあるかもしれません。
 電車の乗り方を今一度確認しましょう。健康な高校生男子の目線では気づけないこともあります。
 マナーに注意するのは当然ですが、困っている人がいたら助けられる男になりましょう。
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