今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

"私”の二重性の心理学1:病理現象として

2022年10月03日 | 心理学

前記事(『〈仏教 3.0〉を哲学する』:”私”の二重性)で問題となった"私の二重性について、心理学の立場から解読する。

まず、アメリカ心理学の祖であるW.ジェームズにおいて、自我の二重性が説かれている。
ジェームズは自我(ego)を主我(I)客我(me)に分けた。

「私は〜だ」(I am  〜.)と言う場合の、「私」が主我で、その主我が自分だと認識している諸属性「〜」が客我である(I am me.)。
客我は主我が(認識)対象化した自我の構成分であり、主我は対象化する側の自我で、意識主体であり、これは意識対象化されない(といっても客我の根拠は主我である)。

客我は対象化された主我の(意識、思考、行動)の記憶的累積物で、心理学用語でいう自己概念、自己イメージ、アイデンティティ、自分らしさ等は客我を意味する。
なので質問形式の心理テストでの自己についての回答は、主我が認識している客我の内容である(投影法テストでの反応は主我の内容)。
アイデンティティがそうであるように、客我は主我にフィードバックされ、主我は客我と整合した状態であろうとする。

この主我と客我の二重性は、システム2の意識活動において容易に自覚されるものであり、これが哲学者や瞑想経験者が説明に腐心した”私”の二重性ではない
ただここから始めたのは、前書『〈仏教 3.0〉を哲学する』では”私”は本来は主我を指すべきなのだが、説明の一部に客我が混じっていたため、まずはこの区別から出発したかったのである。

言い換えると、通常、主我と客我の区別(客我の自覚)ができる人でも区別がつかないのが、前書の主題であるはずだった。

自我機能は人類において創発された心のサブシステムである「システム2」に至って作動する。
それは心の反応主体を自覚する機能である。
システム2の主役はこの自我であり、自我の主体は主我である(以後、客我は議論の枠から外す)。

その主我自体が、2つの機能体の合成であること(=”私”の二重性)は、通常は気づかれないが、自我機能の不全によって、それが顕在化することがある。
その微妙な二重性を病理の視点から理論的に明らかにしたのが、精神医学者の安永浩である。

彼は統合失調症者における、させられ体験、すなわち自己の背後から自己に行動を命令する力(声)を感じる状態を彼独自の「ファントム空間モデル」で示した(そのモデルの説明は省く)。
そのモデルによれば、自己、心理的には自我が、心的空間(こればこのモデルのミソ)を構成していて、その中に複数の自我図式群(身体図式の図式と同じく、図式という内実を備えている)があり、その中で体験起点に位置するのが(ジェームズの「主我」に相当する)「極自我」である。
極自我は通常は絶対主観点である「現象学的自極」(以下、自極)と概ね一致している(心的空間内で同位置。ただし健常者でも微妙にずれているという)が、たとえば統合失調症における「させられ体験」では、自極が対象(外界)側にのめり出ることで極自我と乖離し、自極にとっては背方の極自我からコントロールを受けている実感を覚える(図の「のめり体験」)。

極自我と自極の乖離は、健常者においても一時的な変調として経験できることを私は実体験した(右図そして以下は、著書『私とあなたの心理的距離』(青山社)より)。

「スピードを出して車を運転し、カーブを曲がったらその先に大型車が出てきた。 あわててブレーキを踏むのだが、車がスリップしてハンドルをとられる。「このままではぶつかる!」と思ったその瞬間、以下の体験した。
反射的に自分の心理的位置が、運転している自分から更に後ろに引き離れた。自分が後ろに退(ひ)きながらも、運転している自分は、頼もしくも危機回避行動反応(ハンドルを切る、ブレーキを踏むなど)をし、視線はもちろん前方を凝視していた。そして危機を脱すると 再びもとの状態に戻った。この間の出来事は一瞬(1秒前後)である。」

この現象は、その瞬間、自己が主観性を維持したまま、自極と(知覚・判断・行動主体としての)極自我の2つが分離し、自我分裂を生じるまでもない間に、元 の1つの主観に戻ったのである。
その瞬間は自我の分裂であるから、二重意識のような状態になる。
ひとつは危機に際して目を見開いて対処しようとしている意識(知覚内容はこちらのみ)、他はその現実に対して離人症的な距離感をもって上の自己の背後に隠れるという実感だけの意識である。
前者(リアルな世界に主体として 対処している自己)から後者(何もしない主観機能のみ)が分離したようである。
分離しただけであるから、前者の自我の行動も記憶も阻害されない。
といっても鮮明に体験したのは、一瞬の自我の分裂感、その瞬間生じた異様な「すき間」である。
この時は、あまりに突発的な危機のため、情動反応は間に合わず、情動的パニックとは正反対の、情動が凍り(フリーズ)、一見冷静ながら、実は自分に対して無責任になっているような状態だった。
これは死に瀕するほどの強い刺激を外界から受けた場合、その体験強度を弱めるために、自極が行動主体である極自我の背後に逃げ込んで(図の「退き体験」)、心的空間内のバッファ(余裕)を取ろうとしたものと安永理論的に解釈できる(この反応のより強い形態が”失神”という自我のシャットダウン)。

ついでに、分離した2つのどちらがより自分自身に近いのかと問われれば、迷うことなく退いた自極の方を選ぶ。
運転していた極自我は、危機回避のための心身の反応図式を所有している主体であり、その時の内的・行動的状態を反省(図式対象化)できる。
それに対して「退いた」自極は図式とえる中身をもたない。
その自極は時として自我図式空間の中さえも移動する究極の我(コギト)である
※:生命の危機に瀕する時に、懸命に事態に対処している自分(極自我)とそれを無責任に眺めている自分(自極)とが分離することは、2015年新幹線放火に遭遇した時にも経験した。

この自極と極自我との分離は、安永が説明した統合失調症だけでなく、失神を含んだ解離性障害(古い表現だと「ヒステリー反応」)においても異なる様相で発生するといえる(これを記述するのは本記事が初めて)。
まず解離性健忘・解離性遁走のようないわゆる「記憶喪失」・「蒸発」は、心因性の力によりかつての極自我が自極から離れて、その自己としての内実が自極に把握できなくなった現象と説明できる。
つまり自極は明晰に覚醒して、世界との前面に位置しながら、私としての内実(アイデンティティなどの記憶内容)が離脱しているため、極自我にもとづく対応がまったくできなくなっている状態である。
このような大きくしかも持続的な乖離は、私が経験したような瞬間的な自我の変調(最も軽微な変調症状は「離人感」)とは異質の病理現象である。
※:離人感は統合失調症と解離性障害に共通する症状で、私は小学校6年の夏祭りの場で初めて経験した。ちなみに私は2つのどちらも発症していない。

ただし、あくまでシステム2レベルの自我乖離であるため、システム1における、無自覚的に反応できる生得行動や学習行動との関係は支障がなく、言葉も普通にしゃべれるし、習熟したピアノを弾けてもおかしくない。
すなわち自我乖離はあくまでシステム2における自我内の乖離であり、他のサブシステムおよびそこと自極との間は問題ではない。

さらに解離が重篤な解離性同一性障害(多重人格)は、極自我が複数発生し、それらが交代で自極と接合するようになった異常状態である。
自極と接合可能な複数の極自我が、それぞれ固有(別個)の内実(性別、年齢、パーソナリティ、記憶)を保持している(客我も異なっている)。
またそれら複数の極自我の間で自極との距離(接合しやすさ)に差があり、もっとも接合しやすい極自我が”主人格”とされる。
ただし自極と極自我との接合・乖離の動きの主体は、現在において任意に可能ならば、自極が主体といえるし(自極は心理作用は持ちえないが)、勝手に人格が交代するならば、極自我間の力関係に依存しているといえる。
※:自極と極自我の分離現象を”乖離”と表現し、それが障害となる場合を”解離”とする。

このように極自我と自極の一体性が阻害される病理現象(乖離→解離)が存在し、それらは健常者にとってはすこぶる異様な自我障害の様相を呈する(その意味では、以上の”私”の二重性についての心理学的説明も了解しにくかったかもしれない)。
だがたとえ病理的であっても、これらの現象から、自極と極自我は分離可能であることには変わりなく、それは人の自我のあり方の可能性を示している。

そして、この現象を非病理的に、自我の行き詰まりを打開し、自我からの束縛を解放する、すなわちシステム2の限界を突破するために積極的に活用しようとするのが、瞑想である(すなわち前書の主題)。
瞑想は既存のシステム2による黙考や単なるリラックス法ではなく、心の多重過程の進化を引き出す画期的な心の開発法なのである。


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