空は「有でなければ、無でもない」という形で否定でしか表現できない。
すなわち「空は〜である」とは言わない。
したがって「空とは何か」とは問えず、「空とは何でないか」としか問えない。
空は有・存在・実体(あるもの)ではない。
だが、それゆえ「無である」と言えないのが空である。
ここで龍樹自身も厳密に区別しなかった事項を問題にする。
すなわち、空はあくまで”非”存在であり、”反”存在すなわち無ではない。
「〜ではない」とは、その対立概念ではなく、集合論的には補集合を意味する(前記事ではここを同一視した)。
彼の『中論』は、概念の両端を否定し、その間(中)を真(空)とする。
言語は両端(0.1)しか表現できない。
彼が否定したいのは、言語的思考に本来的に内在するこの「二元論バイアス」なのだ。
その二元の間にある”中”は言葉で説明しにくいので、言葉とは別の記号体系である数学で表現する。
今、デジタル(二元論)的に有=1,無=0とおく。
空は有でない(空≠1)し、無でもない(空≠0)。
デジタル的(言語的=定性的)発想だとこれは矛盾だが、
龍樹は、その言語的発想そのものを否定しいるので、その”矛盾”にめげず、
言語的でない、定量的発想でとらえると矛盾でなくなる。
無0でも有1でもなく、その間(中)に空があるとは、0<空<1 と示せる。
現象として有・無の値を取りうることを認めれば、両端の0と1は極限値として、0≦空≦1 と示せる。
これは実数空間そして確率空間に相当する。
すなわち事象は本質的に確率現象であり、だから空である。
事象(空)は絶対有(定見)でも絶対無(断見)でもないということ。
この発想は言語的思考では困難を伴うが、数学的思考なら素直に受け入れられる。
かように、龍樹は言語的(定性的)思考の枠を脱して数学的(定量的)思考に達していた。
だが龍樹の目的は、ここ(空がいかなる値をとるか)にあるのではない。
空にこだわることではない。
龍樹が問題にしたいのは、現象の究極的な姿ではなく、人間の言語的思考の方だ。
すなわちシステム2である。