玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

近現代史の裏側(27)―極秘の御前会議―

2024-01-25 15:20:13 | 近現代史

『昭和天皇独白録』では、「後継首相の人選であるが、9月6日の御前会議の内容を知ったものではならぬ」且つ又「陸軍を抑え得る力のある者」と条件をつけた。

しかし、御前会議の出席者でないと後継になれないという人事があるのだろうか?国民も知らぬ、極秘の会議であったとしても、大本営では大勢の参謀たちが会議資料、記録の作成にあたっている筈だ。後継人事が会議出席の有無で限定されるのならば、もはや此れは官僚機構とは言えない。

【『昭和天皇独白録』文芸春秋より】

この部分を読んだ時から、天皇は屁理屈を云っていると思った。軍部の極端論者が収まらないから武官を総理にするというのは理屈だが、9月6日の会議に出席した者しか後任の総理が勤まらないとする条件つけると、自ずと候補者が絞られる訳である。

この条件で、役不足であるが、東條が浮上する。ただ海軍の及川大将は然したる理由なくダメだという。陸軍は中将から大将へは6年の停年を要したが、東條は中将5年だったが一年短縮させて大将にさせた。どう考えても特別扱いする程の人材とは思えない。

やはり鈴木貞一と東條英機の共謀であろうという疑念はぬぐえない。これは何回も書いている。まあ自説ではあるが、…。【次回へ】

 

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近現代史の裏側(26)―東條の野心―

2024-01-19 10:06:11 | 近現代史

実は、騙されていたのは、私も、…かも知れない。

東條は格落ちの幕僚で、いつも永田鉄山の手足に使われていたので、どうしても小物感が拭えなかったが、実は隠れた野心家だったのかもしれない。

いきり立つ陸軍を抑えられないから、文官ではなく、武官でなければならない、という理屈は解るし、当時のグルー大使も認めている。

 ジョセフ・グルー『滞日十年』ちくま学芸文庫より

グルーは梅津美治郎の情報を得ていた。私もそう思う。何故なら、成績主義の参謀幕僚の世界では、梅津は永田鉄山より士官学校の一期上で、かつ、陸大卒業成績も梅津が一番、永田は二番だった。ちなみに東條は成績優秀者(6名)の圏外で10位以内ぐらいだろう。

誰が想像しても、東條中将ではなく、先輩格の梅津大将なのである。グルー大使への情報も梅津であった。

というコトは、東條に首相を是が非でも勝ち取るという野心があったと思わざるを得ない。

たぶん東條と鈴木の共謀行為であろう。この二人じゃ、戦争は勝つはずがない。【次週へ】

 

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近現代史の裏側(25)―木戸と東條―

2024-01-18 10:48:20 | 近現代史

『昭和天皇独白録』は作成当時に手元に木戸日記が無くても、東條内閣の誕生については『木戸日記』と『昭和天皇独白録』との整合ができたろうし、戦争責任訴追から、是非にも調整して置かなければいけない重要事項だった。

仮に、天皇が10月18日の東條陸相への大命降下の時に、御自ら9月6日の御前会議条項の白紙化を東條に命令したならば、白紙化が出来なかった場合、東條は責任を取って首相を辞職せねばならなかったはずである。

実際は、木戸内府が替わりに東條に言った。東條は10月18日に首相に就任し、何回かの検討会を行い、たった2週間後の11月2日には、涙を流して白紙化はできない、と天皇に上奏して終わった、…。

【参謀本部編『杉山メモ(上)』原書房より】

ふり返れば、「形だけの白紙化の検討」のような、最初から仕組まれていたような感じがしないでもない。

結局のところ、木戸は、鈴木と東條に騙されていたのかもしれない。【次回へ】

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近現代史の裏側(24)ー木戸は無類のゴルフ好きー

2024-01-12 13:37:31 | 近現代史

1930年10月、木戸は内大臣秘書官長に就く。木戸は無類のゴルフ好きだった。1931年4月20日、陸軍省軍務局の鈴木中佐とゴルフをしていた。この時、鈴木43歳、木戸42歳、ほぼ同い年でもあった。

【『木戸幸一日記(上)』東大出版会より】

軍人がゴルフをする。なんかピンと来ないが、鈴木貞一は、そんなことにはお構いなしの非定型な軍人だった。

鈴木は神出鬼没で、全く捉え処がない、底が知れない人物である。

高宮太平は「両棲動物だ。時の牽制におもねって、自己保存する術にかけてては天下一品」と鈴木のことを『順逆の昭和史』の中で書いている。

木戸も巣鴨プリゾン時代の「豆狸」という綽名からも一筋縄ではいかぬようである。案外二人は性格も似ているのかもしれない。【次週へ】

   

 

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近現代史の裏側(23)―木戸と鈴木の関係―

2024-01-11 10:34:55 | 近現代史

『木戸日記』によると、近衛が総辞職を決めた後の二日間、木戸内大臣と鈴木貞一企画院総裁は四回(電話も含め)接触しているそうだ。

当時の富田健治内閣書記官長は、終戦後に海軍少将高木惣吉に「東条は最初から政権を狙っていた」、「鈴木貞一がその下働きや相談にあずかった」との疑念を洩らしたそうだ。

【野村実『天皇・伏見宮と日本海軍』文芸春秋より】

東條が9月6日御前会議の決議(外交交渉が行き詰まれば英米開戦を決意)の白紙化に簡単に乗ってきたのが、ずっと不審であった。

それならば、荻外荘での近衛との会談に歩み寄りがあっていい筈である。木戸は東條を信用していたのか?実は、木戸は鈴木貞一との親交は長かったのである。【次回へ】

 

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