当時この歌が流れているときは、英語の意味は素通りしても、何となく甘ったるい曲の印象があったが、改めて歌詞を見てみると、日本語訳とのズレが面白い。「とても他の女の子が体験できない…」「未来の子…」とか綺麗に訳しているけど、英語はもっと生々しくて、今更聞くと、まるで映画のストーリーのような、妙に気恥ずかしく、独りでヤニ下がってしまう内容だね。何よりも、世界経済が欧米中心で勢いのあった頃の情景が浮かぶ。とても、揚子江やメコン川にはない世界、何よりも、我々に将来の時間がまだ一杯あった頃の歌だね。
当時この歌が流れているときは、英語の意味は素通りしても、何となく甘ったるい曲の印象があったが、改めて歌詞を見てみると、日本語訳とのズレが面白い。「とても他の女の子が体験できない…」「未来の子…」とか綺麗に訳しているけど、英語はもっと生々しくて、今更聞くと、まるで映画のストーリーのような、妙に気恥ずかしく、独りでヤニ下がってしまう内容だね。何よりも、世界経済が欧米中心で勢いのあった頃の情景が浮かぶ。とても、揚子江やメコン川にはない世界、何よりも、我々に将来の時間がまだ一杯あった頃の歌だね。
スコータイからコンケーンへの道のり、120キロで飛ばしながら、何故だか自然と口ずさんだ歌の一節があった。
それは“Valley, mountain, There is a fountain Washes our tears all away”の一節を何度も口ずさんだ。どうもわたしには、「人生、山あり、谷あり、でも、いたるところに青山在り」と訳していたようである。まさに日本的な人生の応援歌と感じていた。ダイアナ・ロスは私にとって、シュプリームズの時は取ってつけたような不自然な髪型しか記憶がなく、いつの間にかダイアナ・ロスとシュプリームズになり、やがて独立してしまうと言うとても我儘な歌手と言うイメージであった。マービン・ゲイとのデュエットで初めてレコードを買ったが、そんなに好きではなかった。ところが、今度旅から帰って、YOU TUBEで彼女の歌を何度も聞いたが、その度に涙が溢れて困った。まあ、自分の過去の忘れてしまった苦労を思い出したのだろう。年とると涙もろくなるものだ。でも、こんなにも情感あふれる歌であったとは驚きであった。
今までテレビ界を長い間リードしてきたビッグ・スリーが、世間で云う停年を迎える歳となって、今後どうするのか、どうなるのか、いらぬお世話と思いながらも、気になってしまう。先日、タモリは30数年間続いた『笑っていいとも』を終了して、一つの区切りが見えてきた。さんまは後継者が絶対にいない『明石家さんま』という芸を、マンネリと言われようと、倒れるまで継続していきそうだ。
たけしはどうだろう。先週の日曜のニュース番組で、順天堂の医師に向かって、「澤の顔を何とかならないでしょうかね」と言ってしまった。スポーツ選手と顔という連想を、彼の昔ながらの“街のお姉ちゃん”という切り口で切ってしまった。若いころの彼は、群衆の気持ちや行動を的確に掴める男だった。しかし、澤を評するときに、芸能界のお姉ちゃんと同じ目線で見てもしょうがない。澤は自分の実績で自らの顔を造れるスポーツ選手であり、多くの人々は彼女のサッカー場での厳しい表情や運動能力を美しいと感じているはずだ。あのベトナム戦で、澤が途中出場した時の一瞬にして試合の空気を変えたあの魔法のような力を見てほしい。その瞬間、彼女は美人そのものである。
たけしは、お笑い芸人より映画監督の方が上等な職だと思っているようだ。つまりは、芸術が芸能より上だと信じている。現代アートなんか見てると、何が芸術なのか解らなくなる。芸術か、芸能かなんて、単なるジャンル分けなんじゃないだろうか。或る人々にとっては、彼のフランス人に理解されるヤクザ映画よりも、「赤信号みんなで渡れば怖くない」という警句の方が心に残る場合もある。彼の今後の身の処し方を見ていきたい。
昨日YouTube(「ミックス・冷たい雨」)を見た。「あの素晴らしい愛をもう一度」のフォ-ク・クルセイダーズの2002年のLIVEだった。真ん中がはしだのりひこだと思ったら、アルフィーの坂崎だったが、サングラスをかけていたのは、まさしく北山修だった。加藤和彦も元気だった。当時の京都発信の音楽文化を思い出した。「イムジン河」も聞いた。当時は歌全体が盗作だとか、南北朝鮮への政治的な配慮で、放送禁止になったが、「・・・誰が祖国を分けてしまったの・・・」という歌詞だけでも、現在の日韓関係からするならば、「朝鮮を分けたのはおまえだろ!」と怒鳴られるのがよく分かった。懐メロついでに、松任谷由実のわりあい最近のLIVEも見た。感想として、ユーミンはもう作曲家に専念した方がいいと思った。悲しいが彼女の都会的な乾いた高音の声が全く出ていない。「あの日に帰りたい」の前奏.間奏、に、今やポップス界の大御所なのか、贅沢にも元ハイ・ファイ・セットの山本潤子を使っていた。しかし、ユーミンの歌より山本のシャバダバダの方がはるかに聴衆を魅了したのは明らかだった。まあ、山本がユーミンを食ってしまったわけだ。歌は歌屋に任せた方が良いのでは。
今年初めての海に行く。すっかり夏だ。今年も何とか朱夏を生きられるかな。
先日のAKBの選挙で指原莉乃が一位になったオタクたちの投票行動に、いくばくかの政治的なるものの臭いを感じてしまう。芸能界が作った単なる人気投票という場においても、そこにはセンターというポストを巡っての選挙による権力奪取行動とみることもできる。また、投票をしている者にとっては、ちゃんとCD を買って、そのシリアル番号で投票資格を得ている以上、彼らにとっては正当なる参加資格を持っての選挙であるはずである。
当節、マスコミ界においては、大衆に判りやすい行動や可哀想なストリーを背負った者が、必ずや大衆の理解を受け、賛同を受け、選挙において優位に立つことになる。オタク世界に暮らす若者たちと云えども、苦しい境遇にヘタレないで、劇的な復活を果たすヒロインを渇望する若者は少なくないだろう。15万票を入れた若者たちの選挙行動は、指原が九州に左遷された不幸な境遇に、自らの人生をなぞらえて、あくまでも彼らのできる範囲のなかで、汚い大人の世界に一矢報いたともいえる。
2位が大島優子に決まった瞬間、テレビカメラは席を蹴って会場を出ていく何人かの若者の姿を映し出した。彼らは大人の思惑などと全く別の世界に居て、旧来型のアイドル選挙を信じていた若者であった。彼らはあの7万人収容の日産スタジアムを出て、いったいどこに帰ったのだろうか。近場の新横浜でヤケ酒飲むのなら、まだ良しとするが、アキバに戻って猫喫茶でも行くようなら、なんと悲しい世界なのだろうか。でも、大きなお世話か。