70年代に就職する時には、社会人として知っているべき一般教養として「3K赤字」というキーワードがあった。
つまり、「米・国鉄・健保」のKをとってそう呼んだのである。
特に深刻な政治的な問題を孕んでいたのが国鉄であった。耳学だが、戦争に負けたツケが国鉄職員の大量雇用に在り、赤字の原因でもあったと記憶している。特に国鉄の組合は強く、春闘での鉄道ストは社会の停滞を招くと腐心する人達もいた。
そうした状況の中で1980年代に国鉄は民営化と分割化の検討されていた。
1980年7月鈴木善幸内閣において、中曽根行政管理長官が就任し、1981年3月第二次臨時行政調査委員会(東芝元会長土光敏夫)を設置された。国鉄分割論に田中角栄らは反対だった。運輸省も分割化には慎重だった。国鉄内部でも揉めていて、若手三人組と上層部とは意見が分かれていた。
1982年11月中曽根内閣が成立し、国鉄の民営分割論が実現していくことになる。その先頭に立った若手三人のキャリア国鉄マンが、やがてJR西日本の井出正敬、JR東海の葛西敬之、JR東日本の松田昌士と社長に昇り詰めていくのである。