玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

雨ふって、ぬかるみ

2013-02-19 16:42:08 | 近現代史

昨日、中国からの留学生と話す機会があった。「この状態、長びきますか?」「長くなるだろうね」「どうして?」と聞かれた。「片方は受けた暴力をしっかりと子孫に伝えているのに、暴力を振るった方はその行為をはっきりと子孫に伝えていない。その子孫同士が、今となって向き合って、片方はだいぶ力をつけたので昔の屈辱を晴らそうとしている。もう一方はその怒りや屈辱が一向に理解できない。何で今更、というぐらいの言葉しか出てこない。そんな関係だから、今後どう向き合って行ったらいいのか、全くのお手上げの状態だね」と答えた。その場だけの耳ざわりのよい返答はしたくなかったのだ。「せっかく日本語ができるようになったのに、残念だね」といって別れた。

今日はあいにくの雨だが、最近の隣国との関係は、雨降って地固まるとは思えない。日本は子孫に大きな負担を残したようだ。今からでもやれることは、国として歴史教育、とくに近現代史の捉え方を明確にすることだと思う。

日本の戦争責任は、法的には東京裁判とサンフランシスコ条約で決着をしている。賠償は最大の被害国である中国には払わなかったが、中国側が要らないといってきたのを日本側が受け入れたということになっている。こうした理解は今の両国に果たして通用するのだろうか。また、直接の被害者・加害者がいなくなって、世代の問題がある。遺産相続のように、戦争責任も次の世代に継承されるものなのか、今我々が直面している最大の課題である。(秦郁彦『昭和史の論点』文芸春秋社)

ドイツは戦争責任を一般国民とナチを分離して整理をした。悪いのはナチで、ドイツ国民はむしろ被害者だとした。日本の場合だと、悪いのは“ただ軍部である”というように、言えるのだろうか。そこを整理しないで、戦後の日本は経済にのみまっしぐらに進んできた。そのツケが今此処に来ているのだと思う。辛く悩ましい問題だが、今度は避けてはいけないと思う。

コメント
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