「痛恨の極み…、罪を償わさせる…」誰が痛恨の極みで、誰に償わさせるのか。自分の決断が痛恨の極みで、自分がその失敗を償うのか?それとも戦争をしない日本国がイスラム国に罪を償わさせるために、自衛のための戦争を行うというのか。国際社会との連携で、罪を償わさせるという方法論自体が成立するのか。何か肝腎なものが欠けた政治家である。官僚というものは、あらゆる角度から徹底的に緻密詳細なリスク検討を行う特異能力を備えた集団である。しかし、そのリスク選択は国民から信託された政府権力者が行う、それが政治である。その政治システムが歪んでいるのではないか。先日の無意味な選挙によって追認された政府中枢が些か慢心独走になっているのではないだろうか。それを、今、感じる。
「非道卑劣極まりないテロ行為」と非難をするが、抑も戦争というものはそういうものではないのか。戦争に人道的で高尚な行為があるとは思えない。現実として、彼らは戦争をしているのだ。それを日本政府はテロと定義しているだけだ。日本の宰相は二人の人質の存在を知りながら、有志連合に賛同する行為を行った。その時点で政府としてのリスク選択をした筈であろう。果たして、その疲れた顔の人に、戦争状態と言う認識があったのだろうか。
記者に囲まれ、つい言ってしまった「償わさせる」という言葉の語気・語感に、かつての中国大陸で手前勝手に自衛論理を振りかざした日本軍の「暴支膺懲」(八紘一宇の大東亜共栄圏のスローガンに従わない支那を「懲らしめる」)という言葉の語気・語感を重ね合わせてしまう。あのソフトな物腰に反して、その考え方は戦前の国体護持の思想をそのままに受け継いでいるのかもしれない。そんな危ない人間を一国の宰相に二度も就けてしまうこの国の民主制と言うものの迂闊さと怖さを感じる。