先週、旧藤沢宿の永勝寺にある「飯盛女の墓」に行った。実は10年前にも行ったのだが、記憶があいまいで、もう一度見ておきたいと思ったのだ。
幕末には京都~江戸間の人・モノの交通が異常に増加した。そのため宿場は伝馬制の負担がのしかかり、本来の宿商売が廃れた。その打開策として、旅籠に二人の飯盛女を置くことにした。要するに、宿場に色街機能を持たせた訳だ。ここ永勝寺では死んだ飯盛女が丁重に葬られていた。 39基の墓は墓地内に四角く並べて、互いに見合わすように建てられていた。実は、このことが、私の記憶から消えていた。
施主は皆 旅籠 小松屋源蔵。 豆州アジロ コマツと読める。 豆州川奈村与八娘とある。(写真をクリックしすると見えます!)遠くから身売り同然で来たのだろう。墓が立てられただけ、まだましな境遇だったというべきなのだろうか。しかし、概説を読むと、
ここにある墓は、1761~1801年までの40年間に造られたという。小松屋源蔵一代の義侠心というべきなのか、…。