随分奇妙な題名、よく考えると、思わせぶりで、ふざけた題名でもある。話の筋は、小説家志望の若者(ジョン・フォスター)が勉強のために、ひと夏小説家(ジェフ・ブリッジ)の家庭に助手で雇われるという設定で始まる。小説家は児童の絵本を書くのが好きだと云いながら、素人モデルを弄び、一方、美人の妻(キム・ベイシンガー)は死んだ息子が忘れられず、息子に少し似た若者に徐々に心を開いていく。結局、見る側の予感の通り、美人妻は失った息子への近親愛的に、若者は大人の男になる階段として、関係ができる。夫である小説家にとっては、失意の妻へのカンフル剤として若者を妻に与え、また、そうなることを予期していたのだが、いざ二人に関係ができると、心穏やかではいられない。とどのつまり、それぞれの闇を抱えた者たちの性的な交錯がテーマの、世にごまんとある、ありふれた映画である。ところが、この映画は最初のシリアスな出だしから、途中でコメディになっていく。
一つのシーンで小説家がこう云う。「小説は、読み手の側に先を想像させて、予感を持たせる。そして裏切るんだ。だが、うまく読者を導かねば、それも作家の技量だ。つまり読者を操るんだ。読者をストーリーに引きずり込むには、細部(ディテール)はより具体的に書き込むことで、読者の頭の中に場面が現れる。」というようなことを云う。多分、これは原作者(ジョン・アービング)の言葉であろう。
また「小説の構成要素は道具だ。痛み、裏切り、死さえもその道具だ」とも言う。息子の死というシリアスな題材にして、小説家の滑稽感のある色狂い、妻の代替的近親性行為、少年から抜け出せない若者、それらが小説家の道具であった。
最後、細部(ディテール)の具体化は、息子の死の交通事故では、生々しい映像は避けられ、具体な言葉で語られるが、どこかこじ付け的な内容で、コメディの流れの中で浮いている感が残る。息子の死を具体に表現すれば、より造りごとに見えてしまう。そう見えたのは、私の独特の見方かもしれないが。
この映画の最大にして、一番の欠点は、五十歳にしてなおセクシーさが残るキム・ベイシンガーの若者との絡みシーンが、日本放映の段階で、ぼかし過ぎてしまい、映像そのものが台無しにされてしまったことである。
ラストの場面では、建物二階のフロアにスカッシュのコートをつくり、その床にドラえもんのようなドアを造っていた。まさに奇妙な題名の具体化であった。まあ、話題作ではなくても、映画はいろんな楽しみ方ができるものだ。