かつて、70年代に『総括』という言葉がやけに流行った。当時の学生にとって、この言葉は自分の生き方を懸けるような重い響きを持つこともあった。事実、幾人かの若者がそれで命を失った事件もあった。いまや、死語となった『総括』という古い言葉が、久しぶりに新聞の紙面に出てきた。「民維新党 高まらぬ期待」-失敗の総括-(日経新聞 2016・03・01朝刊)
確かに、党名を変える前に、何故政権から転がり落ちたか、という反省も、結論も、ましてや総括が無いのではないか。そんないい加減な政党に、「次の政権を任せられない」というのが世論の正常な感覚であろう。それがまかり通ってしまうのが、永田町の論理なのか、単なるだらしなさなのか。
思い起こせば、反省から逃れたい輩が橋下維新騒ぎに便乗して、選挙民の批判をすり抜けた議員たちの政党と、取り残されたが、反省の一文も書かなかった居直り議員たちの政党と、また元の鞘に納まって、今度はすべてをないまぜにして、党名を変えて、別人に成りすまそうというのが、今回の「民維新党」の実態ということだ。「開いた口が塞がらない」というのは、まさにこういうことを言うのだろう。
与党が世界と時代を掴めない錯誤だらけの復古主義ならば、野党は国内世論すら感じ取れない誤認ばかりの事勿れ主義だ。この国の政治はまったく情けない状況になろうとしている。
ともかく、各野党は、自民党がダブル選挙で勝利し、憲法改正に持ち込まれるのが怖くて、何とか阻止したいのだろうが、それならば、野党がまさに野合をして、『護憲連合』でも作れば、その思いは十分に足りるのではないだろうか。
民主主義というのは、ギリシヤ・ローマの時代から、野望を持つ煽動家によって政治の根底から歪められる危険性があるようだ。この國に、ともかくも西欧的な民主主義を移植してくれたアメリカでも、今や止められないトランプ旋風が起きている。日本も、首相公選制ならば、石原慎太郎や橋下徹も首相になれる可能性はあっただろう。そういう危うさと常に隣り合わせにあるのが、民主主義という人工的な制度なのかもしれない。