玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

二人の加瀬俊一

2020-01-13 22:52:36 | 近現代史

ポツダム共同宣言の受諾の時に、外務省で英語を翻訳しているのが加瀬俊一、最後に受諾を聯合国に電文を伝える先がスイスの加瀬俊一公使、いつも、不思議な思いで読んでいた。

あの当時でも、飛行機で2・3日で行けるのだろうとか。いや、単なるミス・プリンㇳだとか、適当に片づけていた。よくよく調べれば、簡単で、あの時の外務省には同姓同名の加瀬俊一が二人いたのである。

ただし、名前の読み方は違った。一人は5歳ほど年長の「しゅんいち」、もう一人は「としかず」と読むそうだ。

日本にいた、「としかず」が、バーンズ回答の「subject to」を「制限下にある」と日本語訳して、軍部の「従属する」と言う訳文を退けて、強引に受諾に持ち込んだという逸話を作った人物である。

戦後になって、加瀬俊一(としかず)は事も無げに、こう言う。「1946年2月13日、マッカーサーはアメリカの作った憲法を日本政府に突き付けた」と。

その理由は「極東委員会が機能する前に、いち早く平和憲法を作って、天皇は象徴天皇にしてしまう、それから武力を放棄する。その既成事実を作り、極東委員会からの干渉を排除しようとした」と。

だから、今の憲法は第一条に象徴天皇があって、第九条に戦力不保持まで明言されているのである。国民主権はそっちのけで、ただ前文にチョコッと記載されているだけなのである。

(参考文献)加瀬俊一「ミズリー号から占領へ」『語りつぐ昭和史5』昭和52年朝日新聞社

 

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