軍人の日記は戦後著名な軍人たちの回想録とともに相当刊行されている。しかし、一兵士の日記は極めて少ない。
その理由は、⑴軍の生活は徹底した階級社会で、絶対服従の中で個人の時間も空間もないこと。②日本の敗戦とともに厠などで隠れて書いていた手に収まる程の小さな日記類も戦争責任の証拠となるとして焼却を命令されたそうだ。
したがって、世に残った軍人の日記は大将や司令官、高級参謀と云った高官の日記ばかりであるとか。満州事変の時の司令官だった本庄繁の日記を読んだことがあったが、あまり記憶には残っていない。南次郎の日記はあまりの高額で買えなかった。宇垣一成の日記は明らかに後で自分を飾って創られた日記なので、途中で読むのをやめた。
時に、一般の学生でも憲兵に目を付けられて、日記の内容を調べられることもあった。全体主義と云うのは日記を書く自由も奪うものらしい。
ところで、最終の日米交渉に行き詰った日本大使館の寺崎英成一等書記官は、来栖全権駐米大使の了承を得て、俗にいう「ルーズベルト親電」の送付をメソジスト派教会のスタンリー・ジョンソン博士に頼み込んだのだが、結果は時期が遅れてしまい、失敗に終わってしまった。
戦後、彼は宮内省御用掛となって天皇とマッカーサー元帥の通訳を勤めることになる。寺崎の死後遺された遺品の中に、天皇の戦争へのお話を綴った原稿があり、昭和天皇の崩御した後の1991年に文芸春秋社から、所謂『天皇独白録』として刊行された。
それに寄稿した寺崎の娘のマリコの『ある外交官の挫折と栄光』の中に、「いつも必ず日記を書いていた父なのに、1948年2月15日以降の日記が無い」と書いている。
寺崎が死んだのは、1951年8月。とすると約3年半分の日記が無いということになる。この間に、恐らく彼が関係したであろう仕事は、昭和天皇の「沖縄メッセージ」ということになるのか。
それこそが、天皇が新憲法における「象徴」という立場を超えて、国家「元首」として振舞った証拠になってしまう日記なのかもしれない。誰かに燃やされたか、或いは、持ち去られた可能性も否定できない。日記は事実の証明や証拠になり得るモノなのだ。(次回へ)
【参考文献:『昭和二十年八月十五日 夏の日記』角川文庫、『昭和天皇独白録』文春文庫】
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