中国株暴落の報道で、どこから持ってきたのか、習近平の深刻そうな顔の映像が映る。沖縄慰霊の日の報道では、「沖縄をまた戦場にするつもりか!」といった反発が相次いだと云う。事実、安倍首相のスピーチに対して、その冒頭で「帰れ!」という罵声が飛んだ映像を見た。ところがNHKのニュースにはその罵声が消えていた。
今国会の周辺でどの程度の街頭活動やデモが行われているか、信頼のできる報道は見つからない。随分前の話だが、瀬戸内寂聴が集会に参加した時に「今の状況は、自分の生きてきた昭和十五、六年の状況に非常によく似ている。平穏な日常の裏側には軍靴の音が鳴り響いていた。取るものを取りあえず、ここに来た。マスコミにも伝えてほしい」という内容のことをマイクの前で喋っていた。それを報道したメディアもあったが、全く触れなかったメディアもあった。
安保法制が問題化してからは、日々の事件は気持ち悪いくらいどこのテレビ局も同じ映像を流すのに、政治的な出来事となると、明らかに立場の違いが現れ、時には事の存在の痕跡すら残さないと言った作為的な映像が増えてきた。
最近いじめで自殺した子供の通知表が公開され、担任教師の見当はずれの問答が掲示板にしてテレビの映像になる。映像の中では結論の行先が決まっている。映像は、その短い放映時間の中で、何かを消すこと、何かを映すことによって、見る側の印象を操作しようとしているようだ。
ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』で「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」と言い、人々の想像を規定するものの一つとして、一日だけのベストセラーである新聞記事を挙げている。
さすれば、最近の日本は『映像の共同体』とでも言おうか。ただし、映像の有効時間は新聞よりさらに短い、時には≪操作された映像≫がマスメディアを通して、人々の印象を作り上げて行こうという何者かの姑息な意図を感じる。
ではその真の原因は何か?軍国主義の復活、憲法学者による安保法制の違憲意見などだろうか。しかし、この言質は、中国・韓国の政府報道官の発言と同じである。朝日新聞はその昔、虚偽報道=フレームアップで、日本を批判し、それを当時は外国政府が、政府見解として、日本内部の真実であるとし、政治的に利用し、相対的に彼我の国際社会におけるプレゼンスの転換に利用してきた。
現在、その一国は統治者が共産党であり、国民ではない国と他は大統領制民主主義といいながら、実は「君主」に忖度する、三権分立とは名ばかりの自己中心国家とみられるようになった。隣接もう一つの国は、他国民を拉致してはばからい独裁国家だ。
大変になっているのは近隣の国際関係で、それを日本が「性善説」で対処しようとしたら、彼らの望むところはないだろうか。日本の主権者の一人である自分を含め、この全体の状況に責任を持つことは、選挙で誰に投票したとしても避けられない。なぜなら、国民を主権者とする政治のモデルとして「民主主義」があり、意思決定の方法として多数決原理を採用しているからだ。
最近は「映像(音声)情報」が、氾濫している。編集権はメディアあるが、政権党にあるだけでそれに干渉できると誤解する議員もいた。しかし、日本の知的大衆は、その過誤を見抜くとともにメディアの扇動にも乗らなかった。沖縄返還やベトナム反戦などを経験してきた世代の一人として、隊列の前で粋がって「跳ねる」輩が一番始末が悪かった。一時的に興奮し、相手に付け入るスキを与え、多くの経験不足の参加者を逮捕の憂き目に合わせていた。跳ねる本人は、いまさら再逮捕されても気にしていないだろうが、一度のデモでの逮捕歴で就職先が得あられないことにもなっていた。例えば糸井重里は、それゆえ「自由業」を選ばざるを得なかっのではないか。(糸井はどこにも採用されなかったとしていた)
在日米軍基地の返還交渉については、いつか経験を記したいと思う。日本の知的大衆は、安倍政権の功罪を見極めて、是々非々で対応しているのではないか。国内の大変は、近隣状況の[大変]が加速する状況下での対応策の範囲と考える者にとり、紙媒体から映像、インターネットに至るまでのメディアの自己統治能力の急速な低下こそ、二重の意味で「性善説」が通用しなくなったと、肝に銘ずる時代になった、との思いを抱く少数者として時代に向き合っていければと思う。