もう7年も経つのか・・・というのが正直な感想です。
あの頃、我が家のヨンジュナは保育園を卒園する頃でしたが、今はもうすぐ中学2年生になる頃・・・時間が本当に過ぎて行ったんだなあと思います。
7回忌ですから。どんな悲しみも乗り越えなくてはならない時間が経ったのだと思います。振り返って「ああすればよかった」「こうすればよかった」と思うのは当然ですが、誰もが予想外の事であり、マニュアルもあまり役に立たなかった事を考えると、今になって誰かを責める事は出来ないと思います。
責める先があるとすれば当時の民主党政権ですかね。
2011年3月11日は寒かったです。
地震が起きた時、「いつものかな」と思った程度でしたが、時間の長さに「これは大きくなる」と感じました。宮城県沖地震がそうだったからです。
自宅には私と学校から帰って来たばかりの姫がいて、二人で抱き合うようにして地震に耐えました。今、思えば笑い話ですがお互いにクッションを差し出して
「これかぶってテーブルの下に!早く!」って。私は姫にそうしろといい、姫は私にそうしろといい・・そんなやりとりばかりしていました。
テレビでは「慌てないで下さい。小さなお子さんがいらっしゃる方は抱きしめてあげてください」と必死にアナウンサーが言っており、こんな時でも逃げられず、照明器具がブンブン揺れる下で放送を続けないといけないものなのだ・・・とぼんやり考えていました。
余震が何度も来るのでたまらず外に出て目の前のコンビニで水を買いました。
でもあまりの寒さにやっぱり部屋に戻ってしまい・・・
私達がいる階は5回ですが、10階以上の部屋では箪笥などが倒れて来たと。
マンションを買ったのが阪神大震災直後で、エレベーターが止まった時に歩いて階段を登れるぎりぎりの距離を考えて真ん中にした事が、役にたったのかなと。
あの日に感じたのは、自分の心の弱さでした。不安がすぐに体調に出るのだという事に初めて気が付いたんです。
外にいられなかったのも突如、お腹が痛くなって、しかもぜんそくが出始めた時で、トイレに慌てて戻らなければならなかったから。
トイレの中が電車のトイレみたいに揺れていたんですけど、こういう閉鎖空間の方がちょっと安全に感じるかもなどと思い・・・
いや、それよりトイレがない場所にいたらどうなったんだろう私・・・と思うとかえって恐ろしい。
もし被災地にいてぜんそくの薬が切れていたら・・・とか、ああ、自分はこういう時には絶対に行き延びる事が出来ないタイプだとも実感しました。
あの日、同じ関東でも千葉・東京・神奈川では地震の感じ方がけっこう違っていたんだという事がわかりました。
私達の地域でも瓦が落ちて建物が傾くなどの被害は多々ありましたし、無論、液状化もひどかったし、河川津波もありましたよね。原発事故のニュースが入った時は、逃げようがないと思いましたし、郡山宮夫妻を案じて本当に心配でした。
でも、私達に関西や九州へ逃げるという選択肢はありませんでした。
親戚も友人もいないし、夫には仕事もあるしヨンジュナは1週間後に卒園式を迎えようとしていたし・・・そういう事を考える事すらなかったと思います。
後に同僚でアメリカ軍に夫がいる人と話した時は、「すぐに日本から脱出するようにと命令が来て、私は親がいるから絶対に逃げないと言ったのに、軍はそれを許してくれなかった。ほぼ無理やり飛行機に乗せられて夫の実家に行ったの。今でもちょっと恨む」
と言ってました。その時は、「やっぱり外国は行動が早いな。それに比べて日本は」と思ったんですけど、日本人が自分の親などを残して一人安全地帯へ行くという事がどれだけ辛いものかと知りました。
神奈川の大倉山にいて1週間後には九州にいて・・・って腹が立つったら本当に。
私達がいる地域は茨城にも近いですし、一度「臨界」になった事もあります。
その時は近くの焼き肉屋さんにいたんですけど、そんな注意報が出ても、どうしょうもないというか、せいぜい戸締りをするくらいなものでしょう?
放射能というのはまさに見えない敵ですから。
その時だって不安だったけど逃げる・・・という選択肢はなかったなあ。
福島からバスに乗せられて三春だの、加須だのってあっちこっちたらい回しにされた原発被害者さん達は本当に怖かったし、先の見えない不安があったろうなと思います。
慰霊式にご出席の秋篠宮ご夫妻はご立派でした。戦没者慰霊式の天皇陛下の危なっかしい足取りや皇后のびったり感よりずっと安心してみる事が出来ました。
紀子様は帽子をまぶかにかぶって表情が見えませんでしたが、お二人のぴったりとした足取りが素晴らしかったです。