土曜日の総見で見て参りました。
2階席の後ろだったのでショーの時はすごかったですよ。
霧深きエルベのほとり
私は初演も再演も知らず、スカステで放送されたぶつ切りだらけの順みつきさんのを見ただけですから先入観はありませんでした。
一緒に見た友人は、激しく順みつきさんの作品を見ていて「ビア祭は曲が違う。でもみっきさんを思い出して楽しかった」と言ってました。私の回りではすすり泣きがすごかったです。
入江薫先生が好きな人たちはビア祭の曲が違う事に違和感を持ち、腹も立てているようで(その気持ちはわかる)でも今回の演出の上田久美子がこだわりを持って、大階段を前面に出したオープニングを作ったのだと思えば、初めて見る人にとっては違和感なしです。
菊田一夫先生が「ハンブルク」という街に興味を持ち、新聞に載っていた「上流階級の令嬢が船乗りとめでたく結婚」という記事にインスパイアされてこの作品を作った事に感動したのと、でもそれを悲恋にしてしまうことがやっぱり宝塚歌劇なんだなと思いました。
宝塚歌劇に必要な
身分違いの恋
反対勢力の存在
どちらかが身を引く
という王道な段階をきっちりと踏んで予定調和で作られているので、流れが自然。そうはいっても泣けるのは、「間」の取り方が絶妙だから。
カールとマルギットが出あって「ひどいことをされる前に帰る」といい、その時の間だけで、その数秒で互いに「結婚まで考える間柄になった」とわかるんですから、これはすごいでしょ?
それから結婚に向けての流れ、傷つき、別れ・・これが全部ビール祭りの間の出来事でまさに「ロミジュリ」を彷彿とさせますよね。最初からこの二人は生きている世界が違い過ぎてうまくいくわけない。それは知っているんだけどあまりにも二人が純粋だから何とかハッピーエンドになって欲しいと願ってしまう観客心理をうまくついています。
また、この脚本には、カールの言葉や行動をマルギットに説明させるシーンがありますが、そうやってはしょるべきところをまとめちゃってるんだなあと。
無駄がなくて間合いがよくて宝塚的王道の作品なんだと思いました。
「霧深きエルベのほとり」は今の星組だから上演可能だったと思います。どんなにいい作品でも脚本は古いです。言葉遣いも古いったらありゃしない。
「お前はただの家で娘よ。だがその家で娘ってのが俺あなんだかきがさすんだがな」
「何が、何がきがさすの」
「気がさす」などという言葉は今や死語でわからに人の方が多いのでは?
罪悪感があるんだよなあ・・とか、ちょっと立ち止まってその先に行けないんだよなあ・・・とか、そんな意味ですよね。
順みつきさんのこのセリフでもちょっと笑ってしまったんですが紅が言うとそうでもない。びっくりしたのはそのあと。
「だから、俺に、ひどい目にあわせて貰いたくて誘ったんだろう」
これを順みつきさんで聞いた時にちょっと笑ってしまって、今時「ひどい目」で納得する観客がいるのかな。って。でも紅のセリフだと「ひどい目ってどういう事なのかしら?」とわくわくしちゃうってんだから話にならない(あ、これは姫の話)
「キモノを2着買ってやる」
「祝詞をあげてもらったのか」等々現代には合わないセリフが入っていて、この2つは改善の余地があったかと思うのですが。
船乗り=マドロスなんて言わなかった所はいいけど、本質的に船乗りがどんな仕事なのかわからず見ている人も多いでしょうね。マドロスの恋といえば遊びか悲恋と決まっているんですよね。戦前歌謡ではマドロスものがはやったりしていましたから。
で、帰宅してから姫ちゃんに聞きました。
「フロリアンが何であんないい人なのかわからない」って。そしたら姫ちゃんは
「フロリアンはマルギットを愛しているがゆえに、彼女がカールといつまでも中途半端な関係でいるのは見たくない。幸せを願うだけに結婚するならさっさとしてほしい。そしたら諦められる・・と思ってマルギットとカールの味方をした」
へえ、すごいな。年寄りになるとこういう若者の機微がわからなくなるのね・・と反省しました。
フロリアンがマルギットに 「よくお聞き」と説教するところも、これでマルギットに嫌われたら自分も諦められるかなくらいに思っているんだろうと。
私も姫ちゃんの感想を受けて自分なりに考えてみたのですが、フロリアンは現実を知っている大人なんです。社交界というものがどういうものか知っているし、結婚が恋愛だけで成立することがない事も。
彼からしたらマルギットはまだ子供で、純粋に「愛しているから私がやることは全て正しい」と思い込んでいる。でも、世の中には「男のプライド」を傷つけたり現実逃避を愛と思い込むことは決してプラスにならないんですよね。
フロリアンのセリフ「お父さんへの敵意でこの家を飛び出し、お父さんへの敵意からカールと結びついたのだとしたら、その敵意がなくなった時、カールへの愛情はどうなってくるのだ」これをぜひ眞子さまに捧げたい。
確かに、レストランで一般席に行こうとするカールをとどめて特等席に坐らせたのはマルギットの汚点ですよね。自分がカールの立場まで落ちる覚悟がなかったんです。
パーティの時も必要以上にカールを庇ったことは、社交界の人達に言い訳しているようにも見えたでしょう。
女が男をたてる・・・なんて古い考えだけど、そんなつまらない事で男は自信を失う存在でもあるわけですね。
そんなカールが酒場で大泣きするシーンは秀逸で、完全に観客はその世界に入りこんで一緒に泣いてしまいましたよ。
でも一方でそういう古さが似合わない人もいるわけで。それが七海ひろきだったかなと。この人はどこまでもトレンディで今時の人なので、船乗りなのにインテリジェンスで穏やかで・・だからあまりカールに絡まなかったことはよかったと思います。
綺咲愛里のマルギットはごく自然に「乙女」になっていて、彼女だからこそカールが惚れて捨てて泣いて・・・になったんだなあと感じました。
ESTELLAS
お正月のBS放送を見た時、めちゃくちゃ静かなショーだなと思ったのですが、実際に見ると、レーザー光線が綺麗で特に2階席から見ると本当に綺麗だなと思いました。
ただ・・・星組は半年も「KILLER ROUGE」をやっていたんですよ。あの時のド派手な衣装や髪型が脳裏にしみついてしまって。今回のショーではみんながみんな普通に見えちゃって(笑)
中村暁は出来不出来の多い作家ですが、今回は手抜きだなと単純に思いました。
最近のショーではJ-POPやK-POPを多用する作品が多いです。はるか昔「ル・ポアゾン」でクイーンの曲を使って最先端を見せた宝塚。
そして藤井大介が「カクテル」でサザンの曲を使ってJ-POPが広く受け入れられて今に至ります。
こういう今時の曲を使うのは斎藤吉正も同じで、「KILEER ROUGE」は勿論、「MISTY STATION」等でも多用してました。
でもJ-POPやK-POPを使うのはセンスがいる事です。それはクラシックも同じでしょうけど、雰囲気や色の違う音楽を単に組み合わせればいいというものではないんですよね。
今回、平井堅やらレミオロメンやら葉加瀬太郎やら次から次へと自分の好きな曲を使って並べたけど全然色が違ってばらばらであること、過去の中村作品と酷似していることなどから、もうネタ切れで羅列するしかなかったんだろうなと思いました。
クラシックの場合、観客がよく知っている曲を使われれば親しみやすいですが、現代の曲の場合、作者や歌っている人の顔が浮かんでしまい、宝塚の中に馴染ませるのは難しいのです。それをうまくするには主題歌が大事で、それにインパクトがないと、まるでJ-POPの方がメインに見えちゃう。
もっとも腹が立ったのは「情熱大陸」ですかね。黒燕尾が丸々録音なんて・・・あんまりです。宝塚座付き演奏家って暇でいいよねーーと思ってしまいますよ。
何であの曲をそのまま使わないといけないのでしょうか?アレンジしちゃダメだったんでしょうか?だったら使わなくてもよかったんじゃないでしょうか?
星組というムードやイメージを無視して、どこの組にも同じような構成を押し付けるなんて演出家にあるまじきことなんじゃないでしょうね・・・・
今回は極慎のかっこよさにやられましたーー
スカステで「ベルリンわが愛」の新人公演を見て、その演技のうまさに驚いてしまい、すっかり虜に。いや・・浮気はいけない。でも浮気じゃない。あ、浮気か。と悩みつつも、極のキザっぷりがすごくてびっくりしました。
草葉の陰からこっそり応援しますね。