東宮御所は揺れていた。
それは東宮が外国へ出かける時の一言から始まっていた。
「東宮妃のキャリアや人格を否定する動きがあったことは確かです」
そこにいた誰もが東宮の一言に驚き、あわてふためき、そしてすぐに真相を突き止めようとしたのだ。
しかし、東宮はそれ以上は言わなかった。なぜなら、それ以上の語彙を持ち合わせてはいなかったから。
この発言がなされた時、東宮妃の精神状態は最悪であった。
人間であればだれでも40を超えれば自分の人生を振り返る時間が出来る。
今までの生き方は正しかったのかどうか、もっと他にやりようがあったのではないか、どうして今、自分はここにいるのだろうと・・いやでもあれこれ考えてしまう。
元々。皇室という世界は無縁であり、親にすら叱られた経験のない妃が皇后と頂点とするピラミッド型の身分制度に慣れる筈がなく、常に「自分が一番」と教え、育てられて来たのに、頭を下げる相手がいるという事が不思議だった。
「東宮様はお妃さまより上でございます」
「東宮様より長くお話になりませんように」
「両陛下には礼を尽くさなければなりません」
「皇后陛下の教えはきちんと受け止め、精進して頂かなくては」
そんな口うるさい側近を一掃し、ある程度のわがままは夫も、そして舅姑も黙って見逃すという事を知ってからは、気に入らない事は全てキャンセルして来た。
それでもあちらさんは「世継ぎ」を産んで欲しいから下手に出ることはわかっていたし、「世継ぎを求められるのはプレッシャー」と言っておけば世の中のフェミニスト達が大喜びで賛同してくれる。
アメリカの最高峰大学を出た才媛でキャリアウーマンには「子供を産む」事など必要ない。そんなものは、それしか能のない人間がやればいよいと思っていたのだ。
そうは言っても、子供なんかいつでも産めると思っていたのに、まさか自分が「たかが懐妊」すらできないとは。その事に大きく妃は傷ついた。
東宮御所内で噂される「お妃さんはもしかして石女やろか」「いや、殿下の方にも原因があるやも」「そもそもやることやってはるのか」とかまびすしい事と言ったら。
「いつまでもよそよそしいお妃さんや」と侍従からも女官からも思われている事はしっていた。東宮妃は誰かと会話するより部屋に引きこもっている方がすっと好きだったから。
やっと懐妊したと思ったら女一宮だった。
侍従の「次はきっと親王様を授かるでしょう」の一言で侮辱されたと思った妃は二度と出産などしないと心に誓った。
父君のコンクリート卿は怒りをあらわにして「男子が生まれるはずであったに」と叫び、妃の出産に関わった医師に濡れ衣を着せて医学界から追放してしまった。
残る手立ては女一宮に皇位継承権を与えること。
妃の父君の提案には東宮も喜び「ぜひお願いいたします」と頭を下げた。
さらにコンクリート卿は東宮に「水の総裁」という地位を与え、ライフワークとし、一年に一度の晴れ舞台を用意した。
全て娘と孫娘の為だった。「今道長」と揶揄されるコンクリート卿の東宮を操る力は強く、誰もそれにあらがえない。
いつの間にか東宮御所の職員達はコンクリート卿の子飼いで一杯になり、より妃の発言権が強まっていったのだった。
しかし、皇祖神は東宮家に大きな試練を与えた。
それは女一宮が大層「ごゆっくりさん」でお育ちになっている事だった。
子供を育てる事は育児書通りにいかない事は百も承知であったが、女一宮は離乳食に入るのも非常に遅ければ、最初の一歩を出すまでもかなり遅かった。
「女一宮様はブランド病の疑いがございますので、今後、装具や矯正靴を使った方がよろしいでしょう」
東宮侍医は厳かに言葉を進める。
「また、女一宮様におかれましては自閉症の疑いがあります」
「自閉症・・・?」
東宮がびっくりした顔で妃を見た。
「どうしてそんな事がわかるの?」
「両殿下は女一宮様様と目を合わせたことがございますか」
言われて東宮も東宮妃も考え込む。
生後数か月までは夜泣きも多く、ミルクもよく飲まない子ではあったが、機嫌のよい時にはよく笑い、色々なものに興味を持っているように見えた。
けれど、1歳半を過ぎる頃にはすっかり表情をなくし、回りの声が聞こえているのかいないのかわからない程に自分勝手な行動をするようになっている。おまけにいつになっても歩き出さない。
「また、女一宮様におかれは言葉の教室に行かれる必要があります」
1歳半児健診において「発語」は重要な指針である。この時まで一言が出ていなければ言語の発達状態をよく観察し、いわゆる「障害」の有無を考えなくてはならないのだ。
はっきり言ってしまえば、女一宮は一般的な子供の発育よりかなり遅れているのだ。
「今後、御療育という形で何が最善策なのか考えていきましょう」
侍医は努めて明るく、そんなに大事ではないという風に言ったつもりだったが、東宮妃は
「私の子供が遅れているなんて嘘よ。もしそうならそれは私のせいじゃないわ。天皇家の血筋のせいよ。つまりあなたのせいよ」と東宮を指さしたのだ。
東宮に指をさすなんてと侍医も回りの女官たちもぎょっとしたが、指を刺された方の東宮は怒るでもなく「そうかもしれない」と肯定してしまった。
「父宮の姉妹にもそういう方はおありになるし、別に珍しい事ではないみたいだよ。それに内親王なんだから療育をきちんと送ればつつがなく生活を送れるのでは」
「ええ、勿論ですとも。今は医学が発達しておりますので、こういうお子様へのアプローチも段々進化していきますし」
「だったら治して頂戴。女一宮は将来天皇になる子なのよ。成績が悪くては困るの。誰よりも出来がよくなくちゃ困るの」
東宮妃は無茶をいい、さすがに東宮にたしなめられたが、その事がかえって妃の心に傷となって現れ、毎日がとても辛く、自分一人で何もかも背負ってしまったような感じがした。
背の君はあのようにのんびりで、大事とは考えていない。
確かに東宮の叔母君には女一宮と同じような方がいらしたが、人前に出る事もなくすぐに降嫁遊ばされ、先帝の崩御のみぎりにもほとんどマスコミに出ることはなかった。
ただの姫ならそれですむ。けれど女一宮は女帝にならなくてはいけないのだ。
そうでなければ、自分がこんなに苦労して屈辱に耐えて来たことが全部無駄になるではないか。
無駄・・・あの時、父君の言う事を聞いていなかったら、今もキャリアウーマンとしての華を咲かせることが出来たのではないか?
入内して以来、自分が認められる日など一度もなかった。一挙手一投足に文句をつけてきた帝と后の宮。学歴もないくせに偉そうにと思うことで心が晴れることはあったが、それでも壁を突き破ることが出来ない。
とうとう東宮妃は、まるで逃げ出すようにコンクリート卿がお持ちになっている別荘へ駈け込んでしまった。
しかも女一宮を連れて。
これには皇室が大揺れに揺れた。
お上の許しを得ずに実家の別荘へ駈け込む東宮妃など今まで存在したためしがないからだ。
東宮は慌てて参内し「あの・・妃は少し元気をなくしておりまして」としどろもどろの報告をしたが、お上は許さず
「ではなぜ那須や葉山の御用邸に向かわぬ?なぜコンクリート卿の別荘なのか」と畳みかける。
「それはやっぱり周りに女官や侍従がいない方がいいということで」
「それでも東宮妃といえようか!一体、入内して何年経っていると思うのか」
「でもおもうさま。妃はここでは安泰に生活出来ないのです。わかって頂きたく」
お上は頭を抱え込み、病が悪化すると言われそれ以上の報告はなしになった。
東宮は数日後には車列を連ねて、妃と女一宮のいる別荘へ向かったが、別荘はとても小さく家族で手一杯。女官たちも別枠で宿泊しており、当然東宮の寝所もない。
しかたないので東宮は近くのホテルに宿をとり、毎日別荘へ通ったのだが、それこそがまた前代未聞と大顰蹙をかってしまった。
しかし東宮妃は一向にお構いなしであった。
この別荘は白樺やブナの木に覆われ、小さい頃によく来た事があったし、何より母君が一緒にいてくれたので心強く、いくら東宮が迎えに来たからといってそう簡単に帰る気にはならなかった。
「私や女一宮に会いたいならこちらへいらしたら」と言えば、側の母君も
「その通り。東宮様。我が娘をこのような状態したのは皇室なのですよ。東宮様が皇室をお変えにならなくては娘は安心して暮らすことが出来ませんし、私達も手放したくありません」
と言い切った。
東宮には公務が多々あり、まさか妃や皇女の為にそれをとりやめる勇気はなく、仕方なく数日後には都へ帰った。
御所ではその後、東宮妃はどうなのか、体調はいいのか悪いのか、女一宮はどうしていると矢の催促でお上がお尋ねになる。
マスコミも動き出し、前代未聞の静養にみな批判的だった。
「おたあさま。私はどうしたらいいのでしょう?妃と別れるべきですか?」
とうとう東宮は涙目で皇后に訴えられた。
そしてその言葉こそ、東宮妃が求めていたものだった。
こんな状態になってまで皇室にはいたくたい。実家に帰りたい。
たとえ女一宮を置いていけと言われても構わない。もう一度人生をやり直したい。
東宮の弱音に喜んだのは東宮妃だけでなく宮内庁もだった。
とにかく入内してからというもの、振り回されっぱなしの宮内庁としては離婚になってくれれば万々歳。東宮には新しいお妃をめとって頂ければよい。早速準備を。
と、していた所にストップをかけたのはコンクリート卿だった。
いつもは娘に甘い卿だったが、この時ばかりは厳しいお顔で
「皇室の中で自分の居場所を見つけるがよい」と言ったのだった。
「せっかくここまで頑張って来たのだ。もうすぐ頂点が来る。お前が皇后になりさえすれば皇室典範の改正など簡単なこと。女一宮の病も隠せる。いや、隠しおおせてみせる」
そして御所では皇后もまた歯止めをかけていた。
「女一宮の将来を思えば、別れるという選択肢はないのでは?女一宮は皇室にとって大事な姫ですよ。あなた達にとっても。立派に育てさえしたら女一宮はきっとあなた達に幸いをもたらすでしょう」
東宮妃の一か八かの賭けは負けに終わってしまったのだった。