寸部の隙もないくらいの無駄を排除した生活をするとしたら、恐らく人間は壊れてしまうだろう。人間の生活にとって、ある程度の無駄は必要で、それは謂わば潤滑剤のようなもの。そう思うのだが、それにしても現代の生活は、あまりにも無駄が多い、いや多すぎる。
テレビ
日本に居ればそうはならないだろうが、アメリカに住む我が家では大分前からテレビ番組の契約を打ち切った。テレビのニュースと言うのは次の事件でも起きなければ同じニュースを流し続け、面白味が無い。観たいドラマも翌日その放送局のインターネットサイトで一日遅れで観れるから問題なし(ここが日本と違う)。以前はサッカーだけはケーブル番組に加入しようかとも考えたが、インターネットで世界中の試合がライブで観れるので、これも不要となり、とどのつまりがニュースやエンターテインメントはすべてインターネットの恩恵に浴しているわけだ。この部分はパソコンとインターネットというハイテクの旨味を享受させてもらっており、従来型のものを切り捨てて、かなりの無駄省きとなっている。
ケータイ・スマホ
5-6年前、久しぶりに日本へ帰った時の電車の中の異様さには絶句したことがあった。老若男女こぞってケータイのメールチェックに忙しく、人の声がしない。皆、片時でも誰かと繋がっていないと不安で仕方がない、といったような感じだ。銃を持ったら使いたくなる。ケータイやスマホも同じようなもので使用度はエスカレートしていく。まるで麻薬のようなものだ。
よし坊のケータイはかなり昔の機器で電話機能だけのものだ。最近はビジネスでの話も殆どないから、緊急用としての位置づけでしかない。しかもプリペイドだからコストは安い。何が必要で何が不要かを吟味してフリルカットしていけば無駄な金を使わないで済む。
日本にいる娘は未だケイタイ派。最近スマホに替えたいと言ってきたから、よく考えよ、と伝えた。スマホは携帯パソコンに従来の電話やメールが出来るケータイ機能を付けたものと解釈するのが適当だろう。とすれば、ビジネスにはその価値があるかもしれないが、個人が使う機器として適当なのか。人は日常でスマホのパソコン機能に頼らざるを得ないものがどれほど有るのだろうか。???の連続である。
寂しい現代人のオモチャと割り切り、これも潤滑油としての”ムダ”と考えても良いのだが、それにしても、これだけ中毒症状的依存となると、度を越しているわけだ。何事も度を越すとロクなことにはならない。こう考えるのは、単なるローテク老人のヤッカミだろうか。
テレビ
日本に居ればそうはならないだろうが、アメリカに住む我が家では大分前からテレビ番組の契約を打ち切った。テレビのニュースと言うのは次の事件でも起きなければ同じニュースを流し続け、面白味が無い。観たいドラマも翌日その放送局のインターネットサイトで一日遅れで観れるから問題なし(ここが日本と違う)。以前はサッカーだけはケーブル番組に加入しようかとも考えたが、インターネットで世界中の試合がライブで観れるので、これも不要となり、とどのつまりがニュースやエンターテインメントはすべてインターネットの恩恵に浴しているわけだ。この部分はパソコンとインターネットというハイテクの旨味を享受させてもらっており、従来型のものを切り捨てて、かなりの無駄省きとなっている。
ケータイ・スマホ
5-6年前、久しぶりに日本へ帰った時の電車の中の異様さには絶句したことがあった。老若男女こぞってケータイのメールチェックに忙しく、人の声がしない。皆、片時でも誰かと繋がっていないと不安で仕方がない、といったような感じだ。銃を持ったら使いたくなる。ケータイやスマホも同じようなもので使用度はエスカレートしていく。まるで麻薬のようなものだ。
よし坊のケータイはかなり昔の機器で電話機能だけのものだ。最近はビジネスでの話も殆どないから、緊急用としての位置づけでしかない。しかもプリペイドだからコストは安い。何が必要で何が不要かを吟味してフリルカットしていけば無駄な金を使わないで済む。
日本にいる娘は未だケイタイ派。最近スマホに替えたいと言ってきたから、よく考えよ、と伝えた。スマホは携帯パソコンに従来の電話やメールが出来るケータイ機能を付けたものと解釈するのが適当だろう。とすれば、ビジネスにはその価値があるかもしれないが、個人が使う機器として適当なのか。人は日常でスマホのパソコン機能に頼らざるを得ないものがどれほど有るのだろうか。???の連続である。
寂しい現代人のオモチャと割り切り、これも潤滑油としての”ムダ”と考えても良いのだが、それにしても、これだけ中毒症状的依存となると、度を越しているわけだ。何事も度を越すとロクなことにはならない。こう考えるのは、単なるローテク老人のヤッカミだろうか。