よし坊のあっちこっち

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現代の病巣 - 画像通信技術の功罪

2014年10月05日 | いろいろ
本の時代。読みながら作家の意図するところを想像し、自分の中でその世界を創造していく。ラジオの時代。ドラマや物語を聞きながら、その世界を想像し創造した。その時、人夫々が思い思いの形を考え、描いていたように思う。そして映画の時代が来た。ラジオの時代と異なり、それまでに無いビジュアルな画像が観客に提供された。この映画の時代でも人々は未だ十分な形で考え、想像することが出来た。映画は、監督の力量が大きく問われる。限られた一時間半から二時間という空間で、テーマをどう観客に伝えるか。叙述的手法でダラダラやる時間は無いから、カットの一つ一つに意味を持たせて映像化しない部分を観客に想像してもらっう。場面が飛んでも、文章で言えば”行間”を読んでもらう。時には、ただ風景を写しだすだけでテーマの一端を想像してもらう。”映画芸術”と言うように、確かに映画には、監督の芸術的センスというのが不可欠な表現媒体だ。映画の時代までは、ラジオの聞き手や映画の観客という受け手の側に想像や創造する余地が配分されていた。

テレビの時代が来て、連続ドラマが始まった。テレビそのものが悪いと言うつもりは無い。しかし、テレビ時代の到来で間違いなく社会が変節を始めたと思う。新しいものには常に長短、功罪が付き物で、世の常識人は「要は長短を理解し見極めてバランスよく使え」と説くのだが、一般の凡人にはそう簡単にはいかないのだ。

テレビ時代、その映像で価値があり続けるのはニュースとドキュメンタリーだろう。若干の脚色部分が入る危険性や意図しない誤認、例えばサムラゴーチ事件などが無いわけではないが、それでも事実を切り取って観客に生、或いは生に近い状況を見せてくれる。一方で娯楽としてのドラマがあり、これは映画斜陽の原因ともなった。この便利なテレビは我々をどう変えたかと言うと、より「受身」にしてしまった。テレビから発信される情報を基にいろいろ考えない訳ではないが、どちらかと言うと、その情報をただ自分の脳にインプットするだけと言う作業をし続ける。その情報が多ければ多いほど受身傾向の作業となる。連続ドラマにしてもそうだ。物語の筋書きをひたすら叙述的に追っていくだけと言ったら言い過ぎだろうか。短時間にエッセンスを凝縮する映画と違い、物語を追うだけだから”考える”部分がドンドン減っていく。試してみるとよい。叙述的だから、画面を観ずにラジオ的に聴くだけでもそのドラマが大体分かる。こうしてテレビ時代は我々の考える時間を奪い、考える力を弱くしていったような気がしてならない。

裕福な時代とともに、個の時代が叫ばれ、テレビは子供たち一人ひとりの部屋に入り込んでいく。彼らはテレビゲームに熱中し、いつしか”おひとり様”の世界が増殖していった。一家に一台、のテレビ時代にあった”テレビの前の一家団欒”の姿は最早消滅してしまったようだ。

そして現代がある。画像と通信技術の進化は凄まじく、携帯機器が”個”の時代の世界を飲み込んでしまった。”個”の時代と言えば格好いいが、読み替えると”孤”独であり”孤”立の”弧”の時代でもある。だから益々人々は便利な携帯機器にしがみ付き、例えば流行のソーシャルネットワークに繋がることで安心しているようだが、一生懸命”弧”からの脱出を試みているようでいて、実は逆に虜の度合いを増しているのに気がつかない。今時の人は生のコミュニケーションが下手である。ある番組で取り上げられていた若夫婦は家の中で携帯で意思疎通をしていると自慢げに話していた。ゾッとする話だ。

確かに技術の革新が世の中の利便性に多大な貢献をしていることは否定しない。例えば脳の解明などは画像処理やその他の技術で飛躍的に進歩した。しかし、その影でジワリジワリと社会を蝕む負の部分があることを相当意識しなければいけないだろう。考える時間を放棄し、ハンディな機器の取り扱いだけに長けた現代人。現代の病巣の深さは生半可ではないだろう。