よし坊のあっちこっち

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私の恩師(4)二人三脚 海外行脚

2019年11月07日 | いろいろ
韓国では半製品を現地加工仕上げするプロジェクトを展開した。そのきっかけとなる情報を提供したのが恩師KKさんである。よし坊は営業としてそのサポートをしたに過ぎない。そのかたわら、スポーツボール用品質評価の拠点としてのメーカー選びに恩師は動いていた。製品の売込みには技術的な説得が欠かせないものだったので、製品産みの親であるKKさんの存在には大いに助かった。

やがてボール生産拠点として中国が浮上。中国各地へのプレゼン行脚が始まった。当然KKさんが同行してくれた。北京、天津、大連、丹東、上海、広州と、商売に結び付くまで何度かご一緒した。商売が始まった後でもクレームやトラブルでお出ましいただき、大いに助けていただいた。

よし坊のビジネス経験は、韓国中国での恩師との海外行脚の中で大いに鍛えられたと実感している。様々な当時のエピソードが思い出されるが、印象に残る一番は1980年代に起こった、所謂「教科書問題」である。訪問すれば必ず教科書問題で揺さぶられる。だが、KKさんはそんな時こそ行くべし、であった。その気概に大いに共鳴したものである。

個人的なエピソードとして忘れられないのは、韓国日帰り出張である。1970年代から80年代の海外出張でどんなに近い国でも日帰りはあり得なかった。所用日数二~三日でも他にビジネス用件を作り出張内容を濃くしなければ申請が許可されない、そんな時代だった。そんな時韓国からトラブル発生が飛び込んだ。トラブル内容からみて素材供給側の目視が不可欠、更に担当者が直ぐ飛んできたという相手に対する印象がもっと重要、というもの。当時会社全グループで日帰り出張の前例はなかったようである。後年、他の関連会社に移った時、当時の人事部次長が常務で座っていた。大所帯の会社だったからよし坊は一面識もなく、その時が初めてだったが、向こうは昔そんな社員が居たことをどこかで知っていたらしく、”日帰り出張したのはお前だったのか”と大いに歓迎してくれた。

その後、縁あってアメリカに移ったが、恩師KKさんの不屈の闘志、行脚で得た無形の教えは大いに参考にさせていただいた。あの時代から20年以上が過ぎた。