よし坊のあっちこっち

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我が街 アトランタ (3) アトランタに赴任辞令

2016年01月24日 | 風と共に去りぬ の アトランタ
1993年の暮れが近づいた頃、上司に呼ばれた。「君を欲しいと言う関連会社があるが、どうだろうか」。サラリーマンである限り異動や転勤は避けて通りないこと、そして何よりも入社以来22年同じ部署で転機を逸していたのは事実で、遅ればせながらチャレンジ到来と思い、快諾した。

思えば入社以来の22年は楽しかったの一語に尽きる。最初の三年の下積みのスタッフ業務は後々大いに役立ったし、輸出営業に出てからは、上司にも恵まれ、未熟ながらも海外をあっちこっち飛び回らせてもらった。当時の海外出張は、高い飛行機代を使うということもあり、最低でも一週間位は仕事をしてこなければならなかった。従って、無理をしてでも色々と仕事を作る、そんな時代である。一番近い韓国と言えども同じで、日帰りなどはトンデモナイ事であった。しかし、品質事故やクレームとあらば、そんな悠長な事は言ってられない。そんな案件が発生し、大阪ソウル間を日帰り出張した。当時、海外日帰り出張をした社員は居らず、その第一号となった。こう言う事は人事部でも話題になったのであろう。関連会社への異動の時に、この話が出てくるから、人生は面白い。

1994年の二月、グループ会社の中でも、ユニークな存在で、当時世界三大メーカーの一角を占める原料製造メーカーへ異動した。本社が東京なので、関西からの単身赴任となった。東京には前の部署の東京総括のMさんが居たので早速会いに行った。Mさんが主導するアメリカ向けビジネスのサポートをしていた関係で間接的上司として懇意にしていた。一杯飲もうや、の一言で新橋界隈へ。異動の仕掛けはMさんだった。ある日、Mさんは中央線で帰る方向が同じAさんと一緒になった。Aさんは元人事部で、異動先のメーカーの常務に転出していた。Aさん曰く、「輸出経験者を探しているがいいのおらんかな」。Mさんすかさず「うちにおもろいのが居りまっせ」。これでどうも決まったらしい。

東京本社での挨拶で、A常務の所に行った時。「おう来たか。昔韓国に日帰り出張したのは君だったな」。

新天地での仕事はてっきり輸出関連を担当するものだと思っていた。ところが、3か月毎に色々な課に配属され、どうも仕事の焦点が定まらない。輸出を手伝ったかと思うと、技術開発へ。市場開発と思ったら受け渡しへ。その頃からアメリカに会社を設立する話が広まり、誰が行くのかが、あちらこちらで話題になるようになった。よし坊には縁の無いこと、と我関せずで師走の最終日を迎えた。本部長に呼ばれ「来年アトランタに販売会社を設立するので初代で行ってもらいたい」。他人事と思っていたが、これで今までの全てが腑に落ちた。

若い頃は海外に夢を馳せ、中年になれば最早チャンスは無いと諦め、それでも新天地で培った経験を少しでもお役に立てようかと思っていたら、えらいこっちゃ。

明けて正月元旦、爆弾発言をすることになる。家族一同を前に、「今年、準備ができ次第アメリカはアトランタと言う所に転勤する。単身赴任はしない。皆一緒に行く」。一同呆然であった。

こうしてアトランタ行きの準備が始まった。





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