ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

人ごとではない老人介護

2017年08月22日 | 日記

  道端でツユクサが紫色の花を咲かせています。

 「毎日新聞』によると、「岐阜県高山市桐生町の介護老人保健施設「それいゆ」で7月末以降、入所者3人が相次いで死亡し、2人が負傷していたことが明らかになった。県警は施設職員18人から事情を聴くなどして、事件と事故の両面で捜査している。県は18日、介護保険法に基づき施設を立ち入り調査した。」とされる。
 介護施設での事故・事件がこのところ何回か報じられている。被害者にはお見舞いをしながらも、私は加害者・当事者側にも同情の念をもつものだ。と言うのも、ある年齢に達した人なら誰でもが「介護」の仕事が汚濁にまみれた仕事であることを知っているからだ。下の世話から食事、入浴、病気、さては徘徊と、まったくやりきれない介添えが続く。3Kどころではない。家族でさえ手こずる介護を、他人がするのである。苛立って当たり前と思う。
 ヨーロッパではどうなっているのだろうか。
 昔、公園などに老婦人が一人寂しく佇んでいる映像が紹介され、個人主義の一面をのぞかせくれたものである。彼の国々ではファミリーが重視されているようだが、それは個人主義の表の部分で、実際は、死に際に家族が付き添うことはなく、孤独な生の涯は、宗教に頼る以外にない。映画などではそうのように表現されている。
 わが国では、従来、介護は家族が全面的に引く受けてきた。今でも大多数はそうである。そして、こうした家族介護を私たちはごく自然なこと、当然のこととして受け入れてきた。しかし、よく考えれば、こうした習俗は稲作農業に伴う家族労働に起因しているはずだ。小さな水田で食料を自給し、家族全体で仕事に従事、生活を守っていくという日本的な生活のあり方の結果である。ヨーロッパの三圃農業=それに付随する牧畜と、根本的に違うところである。こうした生活のあり方が家族介護の背景にある。
 このところの都市化によって、こうした習俗がくずれ、そして曲がりなりにも社会福祉が充実してきたことから、いまは年取ったら施設に入る、というようになりつつある。この変化は大事である。とはいえ、施設の内実は、費用の関係もあってか、報道にもあるように複雑なものがあるようだ。第一、従事する人材に苦しんでいる。
 理想的な介護、老後はどうあるべきなのであろうか。
 私は、施設を姥捨山のようにすべきではないと常々思っている。老後は元気なうちに入所し、ボランティア活動として施設の運営を手助けする。例えば、掃除、洗濯、周囲の草刈りなどを手伝う。そして施設の内実に触れることにより、入所者のマナーも向上していくだろう。そうした施設がいい。そして、大事なことだが、入所するに際しては家族関係を切断すること。死は他人のことではなく、自分自身のことである。家族に甘えることなく、老後の生活を送る。出家みたいだが、子供や連れ合い、資産から切れ、独り立ちすることが共同で施設生活をすることの第一歩のように思う。
 今、非婚の高齢者は多い。そういう人たちが、将来の老後のあり方の先鞭をつけてくれるのではないかと、私は密かに期待している。【彬】

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