紫陽花の花
小中学校の先生が、課外活動などで過剰な負担となっていることが問題となっている。なるほど、登校時間が早い上に、課外活動についても、顧問、あるいは部長として付きそうことが義務づけられているため、実際、教師は休む暇がないようだ。肝心の教科の下準備もできないようなら、大いに問題だ。日教組全盛の頃は、各学科の教研集会が全国的に展開され、口角泡を飛ばして議論していた頃が嘘みたいな時代となっている。
何が問題なのか。
私は義務教育課程でのカリキュラムの中で、技術系の課目が多すぎるのが、原因だと思っている。例えば、体育、音楽、家庭科、図画工作、である。こうした課目が教科に取り入れられたのは、敗戦後、貧しい時代の中で子どもに西欧的な健康的で文化的な体験をさせるためであった。例えば栄養や衛生面、あるいは衣服や睡眠についての科学的知識の教育。その結果として各家庭の古い習慣は、子どもを通じて徐々に改善されていった。日本の近代化、民主化、経済発展の礎は、学校を通じて浸透していったと言える。
だが今日、そうした教育指針は、生活文化の圧倒的向上、それにマスコミやインターネットの普及によって、時代遅れでその役割を終了していることが明らかになっている。例えば音楽。今、音楽好きの子は、学校からではなく、様ざまな社会的機会を利用してギターやピアノなどの器楽はおろか、ロックやフォークなどのポピュラーな音楽を自在に習得するようになっている。かつてピアニカという奇妙奇天烈な楽器が発明され、子どもたちに分け隔てのない音楽教育を施そうとしたことなど、ほとんど嗤い話に過ぎなくなっているのだ。図画工作も同じである。絵の好きな人は独自にマンガ家の道を歩んでいる。これら技術系の科目は、学校外で学び接する機会が格段に広がっていて、学校での均一的な指導を逆に嫌がる傾向にある。
体育系はどうなのだろう。各学校にプールが設置され、水に親しむことが行われているが、しかし現在は公共の施設が普及して正式の指導員もいる。学校に依存することはない。身体の健全な育成にしても、かつての農山村の肉体駆使の生活から開放された現在、学校の果たす役割は少ない。野球とかサッカーとかの種目は、校庭をスポーツの場所として開放すれば、父兄や関係者が喜んで指導する。
こんな意見を、ある教師に披露したら、賛成どころか、ひどく反発を喰らった。そんなことをしたら教育で一番大切な機会均等が損なわれる、というのだ。学校という場所でこうした技術系を廃止したら、貧しい人はその文化に接する機会がなくなってしまうというのだ。
憲法で謳われている教育を受ける国民の権利は、確かにこうした主張に導く。しかし、ここでいう権利というのは、文化的生活を送るための最低限の権利であり、プールが無くて泳ぐことができないことが、教育の機会均等を阻害することになるのだろうか? 形式的な機会均等にこだわっることが、逆に教師の首を絞めていることになるのではないのか。
主題から逸脱するが、教育としての部活動、特にスポーツ系のあり方は日大のアメフト部問題ではないが、日本が抱えた大きな文化的な問題である。学校教育からスポーツ教育を排除すべきである。朝日新聞が連日に渡って高校野球を称揚している紙面を作っていることに、特に私は苛立つのである。【彬】