夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

年金生活の我が家は、「楽観主義」かしら、と私は微苦笑を重ねて・・。

2014-12-17 15:46:11 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

先ほど、ぼんやりとネットでニュース記事を見たりしている中、
『アベノミクス負担増に打ち勝つ“楽観主義”のススメ』と題された見出しを見て、
どういうことなのょ、と思いながらクリックしてしまった。
       

何かしら哲学者の岸見一郎さんが週刊誌の『女性自身』に談話した記事で、
11月20日に配信された記事と解り、無断ながら転載させて頂く。

《・・「私はこれ以上の消費税増税には断固反対です。
主婦の方もそうだと思いますが、生活者はさまざまなことを肌で感じ取ります。
それは、生活実感のない政治家より、はるかに的確だと自負しています」

そう話すのは、ベストセラー『嫌われる勇気』の著者で哲学者の岸見一郎さん(58歳)。
安倍政権の経済政策「アベノミクス」が行き詰まっている。
円安による食料品などの高騰や、消費税以外にも負担増が相次ぎ、庶民の生活は厳しさを増している。
将来に備え自分の身は自分で守るしかない。では、どうやって自分の身を守っていけばいいのか?

「ただ、今の政治はよくないと思いますが、悪政だから私たちも不幸かといえば、そうではありません。
経済が上向くことが豊かさだと思い込んでいる方も多いのですが、本当の豊かさは、経済とは関係ありません。
つまり、私たちの幸せは、お金の問題ではないのです。

私たちは幸せになるために、お金にとらわれることをやめなければなりません。
豊かさの見方を変えるのです」

岸見さんは、これまでアドラー心理学を研究してきた。
アドラーは人の考え方について言及している。

人の考え方には3つあり、ひとつは、何をしてもどうにもならないだろうという「悲観主義」。
もうひとつは、時がたてば何とかなるだろうという「楽天主義」。
最後は、自分にできることは何かを考え、できることをやってみようという「楽観主義」だ。

アドラーは、「みんなが楽観主義でなければならない」と言っている。

「お金が足りないなら安い食材を探してみる、安くておいしい料理を工夫する、
ベランダで野菜を育てるなどいろいろ考えて、それらを楽しみながら実行するのです。
どんなに生活が苦しくても大変でも、あきらめてはいけません。

自分が今できることをやり続ければ、自分も世の中も変わるかもしれない。
こう考えると、どんな社会でも生きる希望はなくなりません」・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
       
     

私は中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、音楽に直接に携わる制作畑でなく、
裏方の商品、情報、経理、営業を配属され、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。

しかしながら最後の5年間はリストラ烈風の中、30年間奮戦してきた本社から放り出されて、
出向となり、つたない私なりに失墜感にさいなまわれ、
まもなく自分の敵は自分だ、と自身を叱咤激励して奮闘し、出向先で定年を迎えた。

もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに38年勤め栄進されたエリートとは、
遥かに遠い拙(つたな)い男である。

このように私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多い中で、
敗残者のような状況だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活を始めた。
         

定年後の年金生活の当初から、私は平素の買物に関しては自主的に選任者となり、
独りで毎日のように最寄りのスーパー、専門店に行ったりし、
ときおり駅前で買物をした時は本屋に寄ったりしている。

その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

或いはときおり庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
       

私たち夫婦は恥ずかしながら、スマートフォンはもとより、携帯電話さえも使えなく、
その上にフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンに無縁であり、
やむなくインターネットは固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
せめてと思いながら据え置き型のパソコンとノートパソコンを利用している。

その上にフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンに無縁で、
無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思い、
このように稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。
                 
年金生活をしていると、スーツを着る機会もなく、ネクタイは冠婚葬祭ぐらいとなっている。
しかしながら齢を重ねると、きちんとした洋装をしないと見っともないわ、と家内から言われたりしてきたので、
ときおり家内に導かれて、デパートの紳士コーナーで、ブレザーと長ズボンを買い求めたりしてきた。

或いは国内旅行で観光ホテルに5泊6日前後の滞在型で、周辺を歩き回り遊学することが多くなり、
アウトドアの衣服を購入したりしてきた。

いずれも程ほどの高価な品であるが、外出着として数年着た後は、
平素の買物とか散策に愛用したりしている。
その後は私の室内着となり、やがて庭の手入れ時に着たりしている。

こうしたことは靴、帽子、バックなども同様となっている。
       
私は投稿文を綴っている今、着ている冬用のスポーツシャツ、穿(は)いている長ズボンは、
確か7年前の頃に、アウトドア専門店で買い求めた品で、
少し布地は痛んできたが、あと数年は愛用できる、と微苦笑しながら感じたりしている。

私たち夫婦は、程ほどの品を買い求めたりした後、長年愛用するタイプであり、
世の中の流行に遠のいてしまう、と私は微苦笑したりしている。
       

我が家の生計は原則として、私たち夫婦はお互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂いた範囲で、
通常の生活費するのが原則としている。

そして耐久品の購入、共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して、ここ10年を過ごしてきた・・。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

このように私たち夫婦は、経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしているのが、
我が家の実態である。
       

もとより《ゆとりある》生活などは際限はなく、
高齢者は確かな《いきがい》と《健康》そして《気力》を持ち、日々を過ごしているか、
何よりも重要だょ、と敗残者だった私は微苦笑している。


このような年金生活している我が家としては、今回の記事の「悲観主義」、「楽天主義」、そして「楽観主義」、
紹介されていたが、「楽観主義」だよなぁ、と私は心の中で呟(つぶや)きながら、微苦笑したりしている。

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家内は二階から階段を降りる時、滑って落ちてしまい、やがて精密検査を受け・・。

2014-12-16 16:02:49 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の70歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

今朝の7時半過ぎ、家内は2階の和室の寝室と洋間を整理をしていたので、
私は一階の雨戸を開けた後、家内が居間の二階に上がり付近で、うつぶせになって倒れていた。

私は近づいて聞いた所、二階から階段を降りる時、滑って落ちてしまった、
と途切れながら、私に言った。

何か頭も打ったりし、手首の近く、左足も打ったり、全身が・・
と家内は私に言ったりしたので、
『救急車を呼んで、病院に・・』
と私は言ったりした。

しかし家内は、
『ネットで『救急車を呼ぶ前に』を調べて下さい』
と私に言ったので、私は検索した。

そして指定された電話番号先に、家内は現状の原因と状況を伝えた結果、
近くの大きな病院を指定されて、9時より診察開始時間に電話連絡した上、
精密検査を受けて下さい、と家内は言われたりした。

そして応急的にお互いに衣服を整えて、自動車がない我が家として、
私は近くのタクシー会社に連絡したが、空車がないと断られしまった・

やむなく路線バスで私たち夫婦は、指定された大きな病院に向かった。

やがて病院に到着すると、電話で指示された救急受付に行き、
まもなく家内は、各箇所の精密検査を受けたりした・・。

私は検査治療室の前の椅子に座り、待機したりした・・。

       


やがて1時間半過ぎた頃、家内は若き女性の看護師に導かれて車椅子で現れた時は、
私は動顛したが、安静第一ですって、と家内は私に苦笑しながら言ったので、少し安堵したりした。

そして30分過ぎた後、担当医師から精密検査の結果、今後の要注意点を
私たち夫婦は説明を受けたりした。

結果的には脳、首回り、手足の関節などは異常はないが、各箇所で打撲されているので、
数日は痛みを感じるので、痛みを感じたら痛み止め薬を飲んで下さい、
そして打撲された箇所は冷やして・・、
と私たちは言われたりしたので、安堵したりした。


私たち夫婦は、最初の9時より診察開始時間に電話連絡した時、
検査の状況により数日前後は入院して頂く場合があります、
と家内は言われたりした。

私たち夫婦が何よりも心配していたことは、
脳、そして関連した神経で手足などの影響のことなどあったので、
安堵しながら、お互いに微苦笑しりした。

やがて私たち夫婦は、帰路のタクシーの中で、
お互いに若くないので、ちょっとしたことも油断大敵・・、
と私は家内に言ったりし、帰宅できたのは12時半過ぎであった。

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初冬の陽射しの中、心のふるさとのひとつを散策すれば・・。

2014-12-15 12:27:11 | ささやかな古稀からの思い
東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨日の朝、朝食を頂きながら、
『選挙・・何時ぐらいに出かけよぉうか?』
と私は家内に訊(たず)ねた。

『10時過ぎにしませんか・・洗濯も掃除も終えた後ですから・・』
と家内は応(おう)じた。

私たち夫婦の指定された選挙投票所は、我が家から歩いて7分ぐらいの所にあるNTT中央研修センタである。
       

私の住む地域は、東京郊外の世田谷区と狛江市の隣接した調布市のはずれであり、
生家も近く結婚前後の5年を除き、この地を65年ばかり過ごしている。

そして我が家の最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分であり、
小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
或いは私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
この京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。
       

私は家内と1976年(昭和51年)の春に結婚して、千葉県の市川市の国府台にある賃貸マンションで、
新婚生活を2年ばかり過ごした後、
生家の近くに一戸建てを新築して、やがて今日に至っている。

もとより当初は家内としては不慣れな地域であったで、
私は休日になると、家内を誘い、自宅の周辺を散策したりし、
小学生の時に通った道などと共に旧街道の小道まで案内をしたりした。

そして付近には野川が流れ、霞嶺(かすみね)神社、明照院(みょうしょういん)があり、
住宅は確かに密集している中、心のふるさとの原景も我が家の周辺にある。


今回のNTT中央研修センタは、私が小学3年生の1954年(昭和29年)頃は、
日本の電話電信を管轄していた日本電話電信株式会社(現在・NTT)の中央研究所のひとつであり、
中央電通学園と称されて、私たち地元の人々から親しまれていた場所となってきた。

特にこの中にある円形のドーム屋根にある建物は、この当時としては珍しい大型のテレビが設置され、
私たち地元の人たちは幾たびかボクシング試合中継、水泳の中継などを視聴させて頂いた場所でもあった。

そして幾10数年、私たちの地域の選挙の投票所となった上、
調布市から指定された防災の避難所ともなっている場所でもある。
       

朝の10時過ぎに、初冬のまばゆい陽射しの中、私たち夫婦は自宅を出た・・。
そして路線バスも走る大通りの道を避けて、旧街道の小道を歩いて行くことにした。

やがて霞嶺(かすみね)神社の脇道、やがて明照院(みょうしょういん)が表通りを歩いたりした。


この霞嶺神社、明照院は、1985年(昭和60年)に調布市の市制30周年を記念の中、
調布市内の自然、史跡などの中から市民に選ばれ、『調布八景』のひとつとなっている。

私は1944年(昭和19年)に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
そして私が小学校に入学した1951年〈昭和26年〉の春の当時、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに土蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
はずれに小さな稲荷を保有して、この地域の旧家は、このような情景が多かった・・。

そして、この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。

その後、私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

そして1955年〈昭和30年〉の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年〈昭和32年〉であるが、
この頃になると都心に勤める方のベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。

このように私の生家の地域は大きく時代と共に変貌し、
私も生家の近くに1978年〈昭和53年〉の春に一軒屋を構えて住んできたが、
何かと幼年の小学3年生の頃まで、多くの思いがあったので、四季折々訪ねたりしてきた。

霞嶺(かすみね)神社は小高い丘が聳えるようになり、陵山(みささぎやま)といわれる小高い丘となり、                        
高い所には老樹に囲まれた霞嶺神社があり、隣接した低い所には明照院があり、仲良くふたつに別れている。

霞嶺神社に関しては、農業の神、霞嶺大神を祀るかつての村社(武蔵国多摩郡的矢荘入間村)で、
私の幼年期の頃は、秋のお祭りが開催されたりした。
或いは初詣、節分の時は豆まきをした懐かしい場所でもあった。
       

そして隣接している明照院は、室町時代に開かれた天台宗の寺院であり、正面には提灯のさがる本堂のほか,
弁財天が祭られている観音堂,えんま堂そして整備された庭には地蔵尊・六地蔵巡拝供養塔などがある。
やがて私は後年に、観音堂に祀ってある弁財天は、美人の神様、 と私は学んだりした。 
               
私はこの明照院で、幼稚園がなかった当時で託児所となっていたので通ったりした。
          

或いは小学校の入学前、この境内で隅にスクリーンが張られ、夜のひとときを上映してくれた。
私は母に連れられ、近所の方達と共に立ちすくんで観た。

この当時の私の住む地域に於いては、娯楽が少なく、こうした映画を無料で観られるのは、
稀(まれ)であったので、盛会だったと記憶に残っている。
この映画は、『長崎の鐘』であり、私としては最初に観た作品なので、心の片隅に残っている。

そして小学生の夏休みには、この境内でラジオ体操が行われていた。
本堂の前のお賽銭箱の横にある階段にラジオを置き、付近の小学生と共に、
私も日参したりした。
          
このように何かとお世話になった明照院にも愛惜を秘めている場所で、
35年前の頃に家内を案内して、幾たびも話してきた所である。
       

この後、40数年前に住宅地に変貌した都営住宅のある地、そして幾つくマンションのある住宅街を通り過ぎ、
       

やがて切通しの坂道を歩いたりした。
       

この切通しの坂道も私は小学生の頃から歩いてきた道で、以前は丘陵の坂道を切り開いた素朴な土壌の道であったが、
10数年前からコンクリート壁と植木の垣根に変貌してしまったが、私の好きな散歩道のひとつである。
       

この付近には、新たなマンションが建てられる工事中となっている。

そして今回は、選挙に立候補にされた方たちのポスターが掲載されて、
こうした所までかょ、と私は苦笑したりした。

やがて坂道を上がれば、路線バスも通る大通りとなり、少し歩くとそしてNTT中央研修センタが見えた。
       

やがて私たち夫婦は、衆院選の小選挙区選出、比例代表選出のそれぞれのささやかな清き一票、
そして私にとっては不可解な最高裁判所裁判官の国民審査に、
何も記載しないのが賛意と知り、苦笑しながら有権者の責務を終えた後、買物にスーパーに向かったりした。

そして今回は、私の心のふるさとのひとつの中を家内と共に歩いたりしたが、
ときには過ぎし年の原景を観たり、そして現世の密集した住宅街が身近に交差できる私の住む地域に、
若き頃は複雑な感情であったりしたが、40代を過ぎた頃から、愛(いと)おしさを増してきている・・。


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衆院選の不投票の方は、国政に対して不満があっても、発言の資格がない、と思いを深めて・・。

2014-12-14 07:02:58 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
国政選挙の衆院選、参院選の有権者の身でありながら投票されない人は、
たとえ日常生活で不満があっても発言権がないと、
1964年〈昭和39年〉の二十歳以来から信じているひとりである。

日本の国に於いて、政治・外交・軍事・経済など国際社会の主要国の協調の基で、
平和と繁栄を享受してきたが、過ぎし20年前の頃から経済は低下し、やがてデフレ経済の烈風の中、
政治は混迷、経済は低迷、そして社会も劣化となってきた・・。

そして安倍政権の今、今回の衆院選は安倍首相の経済政策「アベノミクス」の信任投票かしら、
と私は思ったりしている。

今回の衆院選の結果、少なからず有権者の選択した立候補、そして選択した党に、
今後の日本の行方に重要な要となるので、軽視はできない。

前提条件として、もとより日本は民主主義の国であるから、
多少の不満があっても党の選択、そして立候補された中で選択をせざるを得ない。

しかし有権者の判断の結果、今後の日本のゆくえに多大に影響するので、有権者の責任も重いが、
何より有権者から託(たく)された議員一人ひとりの言動は重責である。
       
               

このような思いの私は、今回の衆院選も有権者の責務のひとりとして、
東京都選挙管理委員会から配布された『衆議院(小選挙区選出)議員選挙公報(東京都第22区)』、
そして『衆議院(比例代表選出)議員選挙公報』を精読した上、
東京都第22区で信愛できそうな立候補者、そして比例代表選出も信愛に近い党を記入する。

この上に、購読している読売新聞を読んだりして、NHKテレビのニュース、特報などを視聴し、
思案したりしている。

このように齢ばかり重ね、政治にも疎(うと)い私があえて綴ったのは、
ひとえに有権者の方に、出来るだけ多くの方に投票して頂きたい思いからである。

投票されず棄権(きけん)される方は、政治に対する不信を示すひとつ意思表示と思われるが、
有権者として責任の放棄であり、
或いは現政権に対しても黙認ともなる。
                  


もとより有権者の意思が反映されないことは、国政が不安定となり、悪化すれば更に日本の混迷期となるので、
無力な私でも憂(うれ)いている・・。

こうした中で、特に日本の将来を担(にな)って下さる20代の若い人々が棄権(きけん)するのが多いと知り、
私は危惧(きぐ)しているひとりである。

短絡的に表現すれば、有権者の棄権(きけん)は、日本の現状、将来に危険(きけん)となる。


こうした風潮に憂いてきた私は、幾たびか書棚から一冊の本を取り出して、開いたりしてきた。

水木 楊(みずき・よう)・著の『2025年 日本の死』(文藝春秋)であり、
1994年(平成6年)2月に発刊された単行本である。
                              

この本の帯には、
《 あと30年で日本という国家は消滅する 迫真の近未来シミュレーション 》
と大きく掲げられている。

著作者の水木 楊(みずき・よう)氏は、1937年(昭和2年)生まれで、
日本経済新聞社で各部署を歴任し、この本を発表された当時は、取締役・論説主幹である。

私は氏の著作の本は、1990(平成2)年頃から3冊ぐらい愛読していた身なので、
この本も発売日の当日に購入し、精読したひとりである。

『2025年 日本の死』の概要は、1995年(平成7年)時点の頃からの日本の状況を予測し、
社会動向を織り交(ま)ぜて政治の基軸がないまま、
党利党略ばかり不安定期な時期となり、長い混迷期となった後、
やがて国際社会からも取り残され、悲惨な衰退となる、30年間を明示している。

私はここ10数年も政局の昏迷を深めた時、ときおり私が開き、幾度も読んできた一冊の本であり、
著作者が少なくとも1994年(平成6年)以前に予測されて綴られているが、
昨今の状況でも決して色あせず、数多くのことが近似しているので、何かと私は教示を受けている。

国政を司(つかさど)る国家議員の諸兄諸姉はもとより、国民の多くが読んで頂きたい、と思っている。

何よりも国政の不安定の末、混迷を深めて、日本が衰退するのは、
一番困り果てるのは、国民ひとりひとりであることは、いうまでもないことである。
       

このような思いの私は、日頃の政治はもとより外交、軍事などを委託している国家議員に関して、
有権者のひとりとして、随一直接に信任の選択権があるので、欠かさず選挙の際は、投票している。

少なくとも政治に関しては、社会の動向まで影響することもあるので、
投票されない方は、政治はもとより社会の不満を言う資格がない、と公言しているひとりである。
               

家内は過ぎし年の衆院選の時に、家事に専念して投票所に行かず、選挙を棄権(きけん)したことがあった。
そして数か月過ぎた頃、家内がNHKのテレビニュースを視聴していた時、
『あらぁ・・いやだわ・・』
と政治、経済のニュースの時、呟(つぶや)いたりした。

こうした時、私は、
『XXちゃんさぁ・・貴女は選挙に行かなかったじゃないの・・
ほかに優先することがあるって・・
残念ながら、XX政権が良いの、悪いとかは言って欲しくないね・・』
と私は家内に言ったりしてきた。


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たかが年賀状されど年賀状、その人の顔立ち、言葉づかい、しぐさを思い馳せて・・。

2014-12-13 13:35:21 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住むめ年金生活の70歳の身であるが、
2週間の前の頃から、最寄りの郵便局に立ち寄れば、局内の片隅には年賀状の販売飾りがあり、
やがて年末を迎え、新年のならわしの年賀状か、と微笑んだりした・・。

年賀状の由来なども何かと疎(うと)い私は、遅ればせながら7年前に学んだりした。
知識人の飯倉春武(いいくら・はるたけ)さんが編集された『日本人のしきたり』(青春新書)を購読し、
初めて知り、知らなかったょ、と心の中で呟(つぶや)きながら赤面したりした。

無断であるが前半の部分を転記させて頂だけば、下記の通りである。
《・・もともと年頭には、祝賀を交換する習わしがありました。
やがて年賀のために元旦に上司や目上の人などに家々を回るようになり、
年賀を受ける側も、酒・肴・雑煮などを用意して、もてなすようになりました。

しかし、年賀に行けない人は、年賀のあいさつに手紙に書いて送っていました。
これが現代の年賀状の習慣に引き継がれています。(略)・・》
       

私は齢を重ねるたびに、年賀状を頂くのも、ひとつの楽しみとしている。
私の住む地域は、元旦の朝の10時頃に配達されるのが、毎年の慣(なら)わしとなっている。

そして、知人の近況などが付記されていると、
お元気でお過ごし・・と知り、安堵したりしているのである。
          
一番苦笑するのは、定例型の挨拶文だけで記載されている場合である。
例えば、
 賀正
本年もよろしくお願い致します

或いは
  謹賀新年
輝かしい新年を迎えまして
皆様のご健康とご多幸を
心よりお祈り申し上げます
 
私はこうした年賀状を読ませて頂きながら、少し落胆したりしてきた。

たとえ年賀状の一通でも、少なくとも近況とか、何か創意工夫が必要である、
と思ったりしているひとりである。
       

私は小学生の時、『習字』の授業は怠(なま)けていたので、
今でも毛筆で達筆は遥かに遠い夢の世界であり、羨望するだけとなっている。

或いは『図画』の授業も不得意であったので、イラストで絵を描くのも駄目であり、
たとえば林檎(リンゴ)の描いても、リンゴ、と明記しないと、
どのように解釈されるか解らないので、不安さを増すばかりなので、もとより避けている。

そしてデジカメで、その人なりの心を込めた情景で表現すれば良いかしら、
と思ったりしたが無念ながら技量に乏しく、断念している。

やむなく私なり散文で綴り、的確に近況の知らせを短い文章で表現しているが、
私は毎年、12月の中旬になると数日思案したりしてきた。

この近況の知らせを親族、親戚、知人、友人等に数種類書き分け、
現役時代の頃は、上司、同僚なども当然として加わっていたので、私なりに工夫した文面を作成してきた。

古人から、文は人なり、という至言があるので、
たった年賀状一枚と云えども、粗末にできない習性となっている。
                 

こうした思いを秘めた私は、今年の新年に頂いた年賀状と晩秋に頂いた喪中はがきを取りだして、
改めて読んだりしていると、お住まいの地を思い浮かべたり、
その人の顔立ち、言葉づかい、しぐさを思い馳せたりした・・。

そして、あの人は・・お元気に過ごされているかしら、と以前にお逢いして言葉を交わした時を
思い重ねたりした・・。

一昨日に小雨降る日中の時、私は何かと愚図の身の為か、
今書き上げなくて、何日書くよ、と天からの声が聞こえて、
私たちの夫婦の近況の知らせる文面を親族、親戚、知人、友人等に数種類に書き分け、
年賀状を完成させたりした。

余談であるが、年賀状の葉書は、インクジェットを使用し、うぐいす色にしている。
そしてご主人を亡くされた未亡人と称されるご婦人、お世話になっている女性には、
温かみのある桃色の葉書を毎年投函している。

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齢ばかり重ねた私でも、ときには家内の買物にボディ・ガード、荷物持ち、お供となり・・。

2014-12-12 17:35:52 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の70歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

我が家の平素の買物は、私が年金生活を始めて以来、私は自主的に専任担当となり、
近くのスーパー、駅前のスーパー、専門店などに殆ど毎日独りで出かけている。

こうした時は 新聞に添付されたスーパー、ドラック・ストアー、ホーム・センターなどのチラシ広告に、
家内は赤いサインペンで、大きく丸印を付けたりする。

我が家は家内が丸印を付けた品は、買物専任者の私としては購入の必須品となっている。
そして私が買物先の店内で魅せられた食料品を追加として、買い求めるのが鉄則となっている。

こうした中で月に一度ぐらい日常の雑貨品、或いは婦人に関する化粧品、小物など家内が出陣し、
季節が変わる頃、年に4回ぐらいデパートで衣服、小物品を買い求めに外出するが、
こうした時は美容院とか病院に行く以外は、殆ど私が付いていく。

私は何かと家事の大半は家内をしてもらっているので、
せめて家内のボディ・ガード、荷物持ちをして、お供をしなければ、
一家の主(あるじ)としての責務が果たせない、と私は齢を重ねるたびに深めたりしている。
       

昨夕、家内から、明日買い物に行きませんか、と私は告げられた。

何かしら年末に向けて大掃除を始めたら、台所、お風呂場、洗面所など雑貨品などを買い求める主旨であった。
『はい! 了解しました・・行きましょう!』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく大きな声で応(こた)えた。

私は2004年(平成16)の秋に定年退職した直後から<多々の理由で年金生活をし、
やがて65歳の高齢者の身になった頃から、何かと世情に疎(うと)くなっているので、
ボケてはいけない、と家の中でも明るく大きな声で家内と会話することが多くなっている。
       
 
私は現役時代の緊張感から解放されて以来、身過ぎ世過ぎの年金生活の身であるので、
買物、散策をしたりする往復路で、ご近所の奥様の数人と立ち話をすることが多く、
私の秘かな楽しみのひとときとなっている。

こうした時、確か5年前に、あなたは演歌歌手の吉幾三〈よし・いくぞう〉さんに似てるわ、
と言われたりした。

私は顔立ち、大きな声で明るくユーモアをまじえながら話すことは確かに似ているが、
しかしながら私は歌を唄うことは、NHKの『素人のど自慢』に準拠すれば、
どう贔屓目に見ても鐘ふたつぐらいで、
吉幾三さんを思い浮かべて、申し訳ございません、と心の中で詫(わ)びることもある。

今朝、どんよりとした曇り空の朝を迎え、午前の9時半過ぎに家を出て、
徒歩15分ばかりホームセンターに向かった。

私は冬のスポーツシャツの上にフリースのジャケットを着て、家内は薄紫色のセータを着たりしていた。

そして落葉樹のあまたの朱紅色、紅色、黄色、茶色などに染められた葉は
半分ぐらい落葉して、路上の片隅に吹き寄せとなったりしているので、
晩秋も終わり、初冬の季節になったよねぇ、と私は家内に言ったりした。
       

やがてホームセンターで2時間ばかりで買い求めて、翌日に配達依頼をした後、
家内が探し求めている二品ばかりがなく、
もう1店のホームセンターに行くために、路線バスを利用して向かった。

その後は、駅前のスーパー、ドラック・ストアーで買物した後、
午後1時半過ぎに昼食としたが、何かしら最近に開店したカリブ海地域風の料理店であり、
私たち夫婦は久々に風味が合わず、互いに微苦笑したりした。

やがてホーム・センターで家内求めていた品に巡り合えて、
帰宅したりは3時過ぎであった。

そして私は、少し疲れたょ、と私は家内に言ったりし、
家内は何かと自宅でゆっくりと過ごすことの大好きなタイプの為か、
わたしも疲れたわ、と家内が言ったりしたので、互いに微苦笑したりした。


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70代以上の方で、ブログなどで投稿される方は、選ばれた方かしら、思いを重ねて・・。

2014-12-11 15:27:30 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の身であるが、
民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
年金生活を始めたひとりである。

こうした中で、最後の5年半はリストラ烈風の中、出向となり、
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、
私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたりした。

遠い勤務地に通勤し、やかて半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、
と自身を叱咤激励しながら奮戦している中、出向先の会社も大幅なリストラが実施されたりした。

或いは私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風が加速され、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたのである。
              

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
      

このように私は敗残者のようなサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。
         

更に私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしてきた・・。
                 

そして私たち夫婦は子供に恵まれずたった2人だけの家庭の為か、
定年退職後の60歳以降は、私は働くことを卒業し、ささやかに年金生活を始めた。

そして厚生年金、わずかな企業年金を基盤に、程ほど貯金を取り崩しながら、
お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく過ごして、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよい、と願いながら年金生活を開始した。
              
    
    
年金生活を始めた当初、平素の買物は自主的に専任者と家内に宣誓したりした。
そして戸惑いながら買物の責務を終えた後、独りで近所の遊歩道、小公園などを散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。
              
    
            
そして、定年退職後は、『ホームページ』を立ち上げて、
自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いのことなどを出来うる限り随筆風の散文を綴り、
公開しょうと思案したりしていた。

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、無名の私が開設・運営した所で果たして、
と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。
           

そして私はブログの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活のことから、政治、社会などに専門知識がない私でも、私なりの思いを発露でき、
何よりホームページより手軽に開設、運営できると感じ、ブログに加入しょうと決意した。

やがて私は、2004年(平成16年)11月中旬に【アメーバ・ブログ】に加入したり、
まもなく幾つかのブログサイトに彷徨(さまよ)い、この【gooブログ】に定着して、今日に至っている。
       

このような軌跡で、ブログの世界を知って丸10年は過ぎて、早や11年生に進級した。
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
                      

こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
         

私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。
       
従って、数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。
       

この間、私は2008年〈平成20年〉の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していた・・。

やがて『にほんブログ村』に於いては、投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、
私の投稿文毎にどのくらい読んで頂いたか、と目安ができるので、ふたたび本加入させて頂いたのは、
2010年〈平成22年)9月下旬であった。

そしてシニア世代の数多くのお方の投稿文を読ませて頂き、
こうした思い、お考えで日常を過ごされているのか、と深く感じながら、
確かな生きた人生の教科書と教示されたりしている。


こうした中で数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、
何かと安堵しながら、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズ、
と知人、友人からの便りを受けたりしてきた・・。

そして私も長き人生に於いては、60代の期間が何より安楽な時代、と思い重ねたりして享受したりしてきた・・。

この間、私は70代の諸兄諸姉のブログを読ませて頂きながら、
ご高齢の方でも、日々を溌剌と過ごされ、投稿文を重ねていることに、驚きながら多々教示されてきている。

中には【浜ちゃんの小豆島写真日記】と命題された小豆島にお住いのこの当時80代(現・92歳)は、
この地域の四季折々の情景、行事、祭り事、日常の生活などを写真を掲載されながら、
原則として日々投稿されていたので、私は愛読者のひとりとして、少なくとも2年半は過ぎている。

そして私は果たして70代の終わりまで生きられるか、
或いは80代になった時はブログ投稿文を重ねられるか、と見上げるように読ませて頂いたりした。
       

こうした根底には、多く方は70代となれば、体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、
と専門家の人から数多く発言されているのを学んだりしてきた。

そして私は現役のサラリーマンの50代に同僚が病死されたり、
知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。

或いは定年後の62歳で、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
       

私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

やがて私は過ぎし9月下旬に古稀と称される70代の歳となり、
明日への希望と不安を秘めながら、定年退職するまで敗残者だった私でも、
確かな《いきがい》と《健康》そして《気力》を持ち、しなやかに日々を過ごせれば、
と念願したりした。

そして70代以上の方で自助努力も肝要であるが、幸運に恵まれ健康寿命を保った70代以上の方、
その上にブログなどを綴られて投稿される方は、選ばれた方かしら、と思いを重ねたりしている。

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高倉健さんの遺稿文を拝読して、改めてご冥福を重ねて・・。

2014-12-10 15:54:06 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
昨夜、ときおり視聴しているNHKテレビ『ニュースウオッチ9』の中で、
映画俳優の高倉健(たかくら・けん)さんが、亡くなわれる前に月刊雑誌に寄稿文を遺(の)こされていた、
このような意味合いの言葉が、キャスターから紹介されていた。

過ぎし日の11月10日に高倉健さんは死去され、やがて11月18日に公表されて、
私は高倉健さんの訃報に接し、動顛しながらも、ご冥福を祈ったひとりである。

この後、このサイトに投稿文を綴り、送信したりした。
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/d/20141118
☆☆【夢逢人かりそめ草紙】
     1月18日『高倉健さんの訃報に接し、長きに孤軍奮闘のように映画界に貢献されまして、ご冥福を・・。』☆☆

そして当日の11月18日の夜のひとときに、居間で、
私が絶賛してきた降旗康男 ・監督の『駅 STATION』(1981年)』を鑑賞したりした。

翌日の夜は、森谷司郎・監督の『八甲田山 (1977年) 』を鑑賞し、哀悼を重ねたりした。
              

今回、『ニュースウオッチ9』のキャスターから紹介された内容は、
高倉健さんは12歳で、終戦となった昭和20年8月15日に敗戦と知り、人生が変わる一瞬を自覚させられた、
或いは映画俳優の人生の中で、再起点となったは『八甲田山 (1977年) 』の前の心情、やがて過酷な撮影中であった・・
など多々紹介されていた。

私は学びにながら、高倉健さんはどうして亡くなわれる前に月刊雑誌に寄稿文を認(したた)めたのか、
と思ったりした。

今朝、いつものようにNHKテレビのニュースを視聴している中で、
高倉健さんの遺稿文が紹介されて、寄稿されたのは月刊総合雑誌のひとつ『文藝春秋』と知った。

やがて私は平素の買物専任者の責務で、午前中にスーパーを2店ばかり回った後、
月刊総合雑誌の『文藝春秋』(2015年新年号)を買い求めたりした。
            

そして先ほど、『高倉健 病床で綴った最期の手記』と見出しされた寄稿文を拝読し、
そうでしたか、と心の中で呟(つぶや)きながら多々教示されたりした。

具体的に内容は、著作権上にさしさわりがあるので、本誌をお読み下さい。

ただ私は月刊総合雑誌の『文藝春秋』に関して、1970年(昭和45年)4月から長年の購読者のひとりで、
よしみに甘えて、寄稿文を書かれた動機、なり行きが本文の前文として、
編集部の方が明記されているので、転記させて頂く。

《小誌は戦後70年企画として、高倉健さんにご自身の戦後と映画人生を
振り返っていただく原稿をお願いした。
高倉さんはこの依頼を快諾してくださった。

さっそく執筆に入り体調を崩して入院後も、高倉さんはベットの上で推敲を重ねていたという。
亡くなる4日前の11月6日に原稿は完成し、小誌編集部へと届けられた。
遺稿となったこの原稿には高倉さんの映画人生のみならず、
人生哲学や死生観までが記されている。
それは、図らずも日本人の遺言となった--》
注)この原文に、あえて改行を多くした。

私はこの前文、そして高倉健さんにご自身の寄稿文を思い重ねて、改めてご冥福を重ねたりしている。

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ときには年金生活の我が家でも、たった2人だけで忘年会の真似事して・・。

2014-12-09 13:39:43 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たったふたりだけの家庭である。

そして民間の中小業のある会社を35年近く勤めて定年退職になったのは、
2004年(平成16年)の秋で、そして多々の理由で年金生活に入り、早や11年生になっている。

この時節、世の中の働いて下さる現役の諸兄諸姉は、ボーナスシーズンを迎えた後、
多忙の中のひととき、忘年会を会社の同じ部署の人たち、或いは同僚たち、そして友人たち、
それぞれ懇親を深め12月中旬になると思われるが、
何かしら遠い世界の出来事のように感じたりしている。
        
          
私の50代の前半の頃は、サラリーマンで私なりに奮闘し、
この12月は部内はもとより、同世代、悪友たちと、何かと忘年会と称して懇親会を重ねてきた。

そして50代の半ばに、リストラが盛んとなり、
早期退職優遇制度の名目で先輩、同僚、後輩たちが退職されたり、組織の統廃合により人事異動、
そして私のように出向となったりし、烈風の社内状況となった。

定年退職するまで、年に数回は互いに連絡して、東京に残った人たちと懇親会を重ねてきた。

やがて私の定年後になる頃は、病気で通院しているの・・、親の介護で・・、親が亡くなったので・・、
メンバーが次第に欠落した・・。

そして、この時節になると、忘年会は2月頃に有志で集まってすれば、
と敬愛してきている先輩だった人から云われたりすると、
そうですよねぇ、と私は応(こた)えたりしてきた。

このように私は、この時節の忘年会と称した懇親会は、無念ながら消滅したのである。
               
昨今は、多くの退職された方たちも同様と思われるが、
過ぎ去る年の会社時代の先輩、同僚、後輩たちの集いより、
家族の団欒はもとより、親族、親戚関係の冠婚葬祭が優先となっている。

或いは私の近くに住む地元の小、中学の同級生と、最寄駅の居酒屋、食事処で逢い、
懇親を深めたりしている。
こうした時は、同級生の女性から、XXクン、と私は呼ばれたり、
悪友たちとは、お互いに苗字を呼び捨てにし、この世の一番気楽なグループ、と微苦笑したりしている。
       

昨日の午前中に私たち夫婦は年末に向い、小庭の手入れで奮戦した後、
やがて夕食の少し前になると、いつものように家内は台所で料理の完成まじかになると、
私は居間の食卓テーブルにマットを敷いたり、その後は料理、調味料の《お運(は)こびさん》をしたりした。

こうした時、私は『今日はお清めで、呑むょ・・』と家内に言ったりした。

過ぎし2010年(平成22年)の秋に、健康診断の結果、糖尿病と診断され、
内科の医師の指導、家内の野菜を多くした料理、そして私はウォーキングをほぼ毎日したりした。

そして翌年の2011年(平成23年)の3月の初旬、
最寄の内科に4週間毎に定期健診を受けて、糖尿病の範囲の対象から克服でき、悪玉コレステロールは基準値の90%、
これ以外はすべて優等生となった。

この後は、4週間毎に定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
        
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わない。
私自身の糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症である。

こうした根底があり、自宅の周辺3キロぐらいの中の住宅街の道、遊歩道、小公園などを
ひたすら歩いたりする中で、 季節のうつろいを享受している。

こうした中、お酒もここ5年は国内旅行、冠婚葬祭、懇親会以外は、5日に一回ぐらいとなり、
今日に至っている。

そして何かと呑兵衛だった私は、ここ数年は休肝日も苦痛と感じることなく過ごしてきたので、
我ながら微苦笑したりしている。
       

しかしながら5日に一回ぐらいは、日常生活にアクセントを加味する為に、
心身に良いと思われ、お清めの日、と私は称している。

そして昨夜の時、私は大きめのグラスに氷片を入れた後、ウィスキーを注(そそ)いで、
水を少し入れたりした。
若き頃の私は、氷片だけを入れたウィスキー・オンザロックをこよなく愛飲した時期があったりしたが、
やはり齢を重ねると、少し水を入れて、薄目のオンザロックとなっている。

やがて私たちは夕食を頂く前に、
『XXちゃんは・・ビールで良い?』
と私は家内に訊(き)いたりした後、やがて缶ビールとグラスを家内の横に置いたりした。

たまたま昨夜のメニューは、豚肉のショウガ焼き、野菜の炒め物、
そして温めた豆腐にカレーをかけた私好みのささやかな料理であったが、
私たちは呑みながら、食べたりして、談笑を重ねたりした・・。

これから年末までの予定事項の買物などを話し合ったりした後、
来るⅠ月、2月の冬の旅路の予約済みのことを話題となったり、
そして過ぎし今年のⅠ月に函館市の郊外にある湯の川温泉の観光ホテルに4泊5日で滞在して、
周辺を歩き廻り遊学したこと。

或いは2月の札幌市の奥地にある定山渓温泉の観光ホテルに13泊14日で滞在して、
各地を遊学したことなどの旅先のこぼれ話しを談笑したりした。

こうした話を重ねていると、瞬く間に時が過ぎ、夕食の料理は食べ尽くしてしまい、
家内は煮たハス(レイコン)、ゴホウ、そして白菜の漬物をそれぞれ小鉢に入れて、
私の前に置いたりした。

私は幼年期に農家の児として育ったので、こうした素朴な食べ物も、
愛(いと)しきひとつとなっている。

そして私は薄目のオンザロックを2杯目を呑みながら、
『忘年会みたいだよねぇ・・』
と私は家内に言ったりした。
       

私たち夫婦は若き頃は、この時節に都心の食事処に行ったりしていたが、
齢を重ねたびに魅了されることが低下してしまった。
そして代わりに温泉地に一泊だけでも宿泊して、ゆっくりと過ごすのに安らぎを得て、
幾たびも旅路を重ねたりしてきた。

このような心情の私たち夫婦は、自宅か旅先の観光ホテルなどで、
ゆったりと過ごすのが、好みとなっている。


私たちは談笑を重ねていると、11時過ぎと知り、お互いに後かたずをしたりした。
そして3時間半ばかりの忘年会の真似事だった、と私は微笑んだりした。

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小庭の手入れ、年末年始に向い私たち夫婦は奮闘しても、私はあえなく・・。

2014-12-08 14:32:23 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
一昨日の夕食時に、私は家内に、
『庭の樹・・伸びているし、年末に向かって第一弾の手入れをするよ・・』
と私は家内に言ったりした。

『そうねぇ・・玄関の庭の方だけでも、手入れをしないと・・
私も手伝うから・・年末に備えて枝切りを徹底的にしましょう、私も頑張るわ』
と家内は微笑みながら言ったりした。

我が家の敷地は変形5角形で、家屋を建つと、玄関庭と主庭となり、
原則として庭の手入れは私の責務の範疇であるが、蚊(か)の出る5月下旬頃から10月頃までを除き、
体力の衰えた私を見かねて、家内の支援を受けることが多い。

我が家の小庭の樹の剪定は、ご近所のお宅の殆どは植木屋さんに年に数回依頼しているが、
我が家は私たち夫婦が自己流でしているのが定年後の実態である・・。
                 
                  
私が2004年(平成16年)の定年前は、5年ごとに植木屋さんに依頼するたびに50万円前後を要してきたが、
この間は私が物真似て剪定してきた。

そして私が定年後まもなくして、ご近所より少し広い我が家は、
植木屋さんに年に数回依頼すれば、数10万円と教えられたりした。

こうした時、家内は3泊4日ぐらいの私たちの旅行ができるわ、と言い、
小庭の手入れは私の責務の範疇であったが、年に数回は家内の手助けを借りている。
                  

今朝、私たち夫婦は5時に起きて、着替えたりした後は朝食を頂いたりしたが、
庭先も暗いのである。

そしてこの時節の日の出時間は、確か6時半前後と思いだして、私は苦笑したりした。

こうした時、私はパソコンを立ち上げて、私のブログを見たりしている時、
コメントが一通あったので、私は返信した後、玄関庭に下り立った・・。

こうした時の私の容姿は、ストレッチパンズの長ズボン、着古した冬用のジャンパー、スポーツシャツ、
ウォーキング・シューズ、帽子、滑り止めの軍手をしたりしている。
そして剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにしている。

まもなく家内も出てきて、冬用のトレーナー姿にエプロンした容姿でタオルを姉さん被(かぶ)り、
ウォーキング・シューズの万全な容姿で、滑り止めの軍手をして、
高枝鋏(たかえだばさみ)を薙刀〈なぎがた〉のように持ち、私に近寄ってきた。

そして私は初夏の頃に買い求めた切れ味抜群の鋸(のこぎり)を右手に持ちながら、
適度な台に乗り、枝葉を切り落としはじめた。

家内も剪定用の鋸(のこぎり)を右手に持ちながら、小枝を切り落としたり、
或いは剪定鋏(ハサミ)を使ったりしていた。
       

私は何にかと暑さに苦手であるが、冬晴れのような5度前後てあったので、
これだったら何時間でも大丈夫たょ、と私は家内に言ったりした。
       

こうして我が家の歩道に面した垣根のカイズカイブキ、アカネモチ、ツバキなどを剪定したり、
或いは生家の貸駐車場と隣接した塀際に植えているハクバイ、モミジなどを切り詰めたり、
玄関に近いナンテンなども短めにした。

私たちは若き40代の頃は、数多い雑木は樹高10メートル前後にしていたが、
齢を重ねた60代の頃から、樹高3メートル前後ぐらいにしなければ、
手入れが困難になるので、小ぶりに剪定したりしてきた。

そして2時間近く奮戦した後、やがて枝葉を散乱したので、
市の指定された『燃えるゴミ袋』のLLサイズ(45リットル入り、有料・10袋入り、840円)に、
袋に破れないように入れる為、枝葉を適度に剪定鋏(ハサミ)で切ったりした。

こうした中で樹の直径15センチ前後の枝も切り落としたので、
『燃えるゴミ袋』に入れる長さに切ったりした。
その後、散乱した枝葉を掃き清めたりした。

こうした中で、私は玄関の前の石畳に簡易椅子を持ちこんで、
ほぼ30分ごとに5分休憩し、煎茶を飲んだりした。

家内は12月下旬の誕生日を迎えると65歳となるが、何かしら心身溌剌としている。
私は過ぎし9月下旬の誕生日で古稀と称される70歳となったが、
定年退職後は現役時代の緊張感が失くしたせいか、昨今は体力の衰えも実感する時がある。

私の母、そして家内の母も更年期が過ぎてから、
新たに甦〈よみがえ〉る程に元気になっていた60代の時期もあったので、
女は良〈い〉いよなぁ、と私は家内を見つめたりしていた。

この後、『XXちゃんさぁ・・今日は玄関庭が終わったし、主庭は僕が25日までするから、
本日はやめない?』
と私の方から家内に提案したりした。
       

そして風呂を沸いた頃、家内に先に入ってもらい、
私は玄関の前の石畳に簡易椅子に座り、陽射しを受けながら煎茶を飲なだりした。

私は若き40代の頃は、こうした時はお寿司屋さんから頂いた大きな湯呑茶碗で、
冷酒を二杯ぐらいは呑んで待機していたが、
その後の50代の時は、殆どビールを呑んだりしていたが、
今や煎茶を飲む身となり、やはり齢かしらと苦笑し、短くなった樹木を眺めたりしていた。

やがて家内から、お風呂を上がったわ、と私は聞いたりした後、
市が指定された我が家の門扉の内側に、『燃えるゴミ袋』のLLサイズが9つばかりあり、
私は微苦笑しながら、お風呂場に向かったりした。

そして結果として3時間半ばかりで玄関庭は終えたが、
25日まで主庭の手入れをして、年末を迎えよう、と私は自身を叱咤激励をしたりした。

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ときには『星にお願い』の今週の運勢に、何かと愚図の私は叱咤激励をさせられ・・。

2014-12-07 09:46:55 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後36年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、私はいつものように配達された読売新聞の朝刊を読んだりした後、
付録のような『よみほっと』と称された日曜版を見たりしていた。

この後、6面にある『星にお願い』と題された今週の運勢(12月7日~12月13日)が掲載され、
齢ばかり重ねた私でも、こっそりと読んでしまった・・。

私は2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
恥ずかしながら私は『てんびん座』の固定長であることを家内から学んだ。

これ以前は、もとより地球は回転し、天空の『いて座』、『おとめ座』、『かに座』などの星座も動くので、
私は9月27日生まれであるので、その時により今月は『いて座』になったり、来月は『おとめ座』に変わると、
漠然と思ったりしてきたりした。

このような思ったりしていたので、定年後まもない時、
『XXちゃんさぁ・・今回も僕の場合は、『てんびん座』になっている・・』
と私は家内に言ったりした。

『あなたぁ・・よくも35年も会社に勤められたわねぇ・・
あなたの場合は『てんびん座』で、一生変わりませんわ・・』
と家内は、驚きながらあきれた表情で私に断言した。

『そぉなの・・』
と私は生まれて初めて知り、これ以来私は星座に関しては公言をためらってきた・・。
          

このように何かと無知なことの多い私は、宇月田麻裕(うつきた・まひろ)氏が心身込めた今週の運勢で、
『てんびん座』の欄を読んでしまった。

《 サクサクと物事をこなすほどに運気は上昇へ。
            意味のないだらだらはNG 》
と明記されていた。
       

私は微苦笑しながら、私は定年退職するまでの半生は何かと劣等感があり、屈折の多い人生だったので、
八百万(やおよろず)の神は、哀れな男ょと感じて、
60代の年金生活を安楽に過ごせるように采配して下さり、私なりに享受してきた。

しかしながら何かと愚図の私は、今週の運勢に寄ると、素早く行動して、だらだらは駄目ょ、
と明示されても・・困るよなぁ・・と苦笑したりした。


私は平素の買物は定年後に専任者となり、老ボーイなりに毎日のようにスーパー、専門店に行った後は、
やはり独りで自宅の付近3キロ範囲を散策したりしている。

その後は、自宅で本を読んだりしていることが多く、
ときおり昨今は、居間のソファーから、二階の寝室で布団にもぐり、電気毛布の暖かい中、
本を読みながら寝付いてしまうことがあったりして、
目覚めた時は、冬眠には少し早いかしら、と微苦笑したりした・・。
       

私の今週の予定事項には、年賀状を完成、年末に向けて小庭の手入れの第一回、
家内がホームセンターに買物に行くので、体力の衰えた私でもボディガード兼お供、そして荷物持ち、
などがノロマの私なりに山積している。

家内は独り住まいの家内の母に年末の28日にに来宅して頂き、
私たち夫婦と共に三人で年始の1月3日まで共に過ごすぐらいが恒例となっているので、
家内は早くも窓拭きなどを始めて、やがて大掃除の準備となり、多忙となっている。

このような今週の予定事項の中、『星にお願い』の今週の運勢からも、
モタモタしては駄目よ・・素早く行動をしなさい、
と私は叱咤激励をさせられ、はい! 、と心の中で呟(つぶや)いたりしている。

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『(17年4月より)消費税増税は景気回復後に行う』べきだ、と教示され、私は微苦笑して・・。

2014-12-06 16:06:23 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
先ほど、ネットでニュースを見ている中、
ここ10数年何かと信愛している経済ジャーナリスト・荻原博子さんが、
『荻原博子さん語る「増税延期でも物価はもっと上がります」』と見出しを見て、
何かと経済にも疎い私は、どういうことなの、と思いながらクリックしてしまった。

この記事は『女性自身 』に掲載された記事のひとつで、そして12月6日(土)13時配信され、
私は精読した後、やがて微苦笑させられたりした・・。

無断ながら記事を転載させて頂く。

《・・消費税増税が先送りになり、衆議院が解散。
安倍首相の言う、「アベノミクスを問う選挙」が12月14日に行われる。
私たちはアベノミクスを、どう評価すればいいのか?増税延期でどうなるのか?
経済ジャーナリスト・荻原博子さんが語ってくれた。

「消費増税の先送りは、私は当然だと思います。
今年4月に消費税が8%になって、家計にダメージを感じる方も多いでしょう。
総務省家計調査でも、今年7~9月の消費支出は前年比で5.3%減と、消費の冷え込みは明らかです。
このうえ増税すれば、デフレ脱却などできません」

ただ政府は「’17年4月に景気に関係なく増税する」と言及している。

「消費者は次の増税に備え、少しでも蓄えようといっそう買い控えるでしょう。
消費支出は低いまま、景気はよくなりません。
増税先送りの意味がない、むしろ逆効果ではないかと思います。
消費者が安心してお金を使えるように、『消費税増税は景気回復後に行う』べきだと、私は考えます。
       

いっぽう、増税先送りで社会保障改革、特に年金や子育て支援などへの影響が危惧されます。
今後の優先順位のつけ方などに注目を」

安倍首相は’12年12月の就任以来約2年間、アベノミクスを推進してきた。
しかし今、成果が見えない。
もっとも重要な第三の矢、成長戦略に、思い出せる施策や成果がない。
当初は、新エネルギー構想などもあったが、結局、政府は原発の再稼働に向かい、成長産業は起こらなかった。

「安倍首相は、株価の高騰を成果と強調しますが、今の株価は実体経済とリンクしていません。
株価の上昇が、景気の上昇にはつながらず、恩恵を受けたのは世界中の機関投資家と一部の富裕層だけ。
これが成果と呼べるのでしょうか」

さらに、本当につらいのはこれからだと荻原さん。

「まず、今秋以降の急激な円安は、2~3カ月遅れてお正月ごろから、モノの値段を押し上げます。
物価はもっと高くなるでしょう。企業倒産の増加も心配です。
今年1~9月には円安が原因での倒産が、前年同期の2.4倍でした(東京商工リサーチによる)。
来年3月の決算期には、消費税に関連した倒産が増えるでしょう」

これらがアベノミクスの結果だ。
この選挙は本当に「アベノミクスを問う」だけでいいのか。荻原さんはこう言う。

「1人1人が、もっとも大切にしたい選挙争点を決め、各党の意見をしっかり見比べ、悔いのない選択をしましょう。
日本の将来を決める大切な選挙です。どんなに選ぶのがむずかしくても、必ず投票に行きましょう」・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
       

私が特に注視したは、《・・消費者が安心してお金を使えるように、
『消費税増税は景気回復後に行う』べきだと、私は考えます。・・》

私は高齢者の受給者の身であり、確かに年金は昨年2013年10月から1%、
そして今年の2014年4月から1%、来年の2015年4月から0.5%と、
段階的に引き下げられきた実態に、今後の削減も・・ためいきをしてきたは事実である。

しかしながら社会保障費は国家予算の中でも大半を占めて、少子高齢化の中、
毎年少なくとも1兆円が増加している。

もとより日本の社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用は、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えている現実である。

超高齢社会を迎えている今日、高齢化率は25%を越える中、
団塊の世代が75歳以上になる2025年には30%に上昇する見通しで、
制度を支える現役世代は減り続けているのが実態である。

その上、医療や介護の費用も急速に膨らんでいる。

このような日本の命題の社会保障制度を再構築するには、各世代で痛みを分かち合うことが不可欠であり、
今の年金の現行制度では、高齢者への給付が多くなるほど、将来世代の給付水準が低下するので、
削減が実施されてきたし、今後も給付抑制がされる、と私は新聞、雑誌などから学んできた・・。
       

今回の消費税増税が先送りになったことは、私は賛意しているが、
果たして『(17年4月より)消費税増税は景気回復後に行う』べきだ、という論調には、
増税分で予定される社会保障の財源、今後の社会保障の充実策は大丈夫かしら、
更に次世代に赤字を先送りすることは許されるか、と高齢者の私でも、戸惑ったりしている。

余談であるが、私たち夫婦は子供に恵まれなかったで、息子、娘もてなく、孫もいない。
たわむれを許して頂ければ、私たち夫婦は幾10年先には、この世にいないのだから、
今回の荻原博子さんの論調に対しては反意するは、私に取っては言わぬが花かしら、と思いながら、
微苦笑したりしている。

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年金生活の何よりのボーナスは、程ほどの自在の日々、と高齢者の私は微苦笑を重ねて・・。

2014-12-05 15:53:12 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

ここ2週間前の頃から新聞の折込みチラシなどで、お歳暮の商品、クリスマスの贈り物、御節料理など、
掲載されているので、早くも歳末に向っている、と私は教示されたりしている。
       

昨日の朝のひととき、こうした折込みチラシを家内が見ていた時、
『世の中は冬ボーナスの時期時かしら・・』
と家内は私に言った。

『そうだょねぇ・・僕の現役時代は5日だったし・・
確か官公庁の方たちも10日だった、と記憶しているょ』
と私は苦笑しながら家内に応〈こた〉えたりした。

『私たち、この時節にボーナスもなく・・少し寂しいわねぇ』
と家内は私に言ったりした。

『でもねぇ・・こうして過ごせるのだから』
と私は苦笑しなが家内に言ったりした。

『そうよねぇ・・働らなくとも・・何とか生活できるのだから・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりした。
       

先ほど、ぼんやりとベランダに下り立つと、
昨今は曜日の感覚も定まらいが、確か金曜日だったと思ったりしながら、
本日の5日が支給日かしら、と思い重ねたりした。

そしてあの頃は、ボーナスを頂いた時が想いだされた・・。

私の20代の頃の独身時代は、スーツ、ワイシャツ、ネクタイ、通勤靴、通勤バックなどを買い揃えて、
母に幾ばくかを手渡し、そして呑み屋さんに通っても、程々の貯金が出来たりした。

やがて30代の初め、結婚し、賃貸マンションに入居するまで、
何かと無知な私でも、結構お金を要すると解り、生家の長兄から、ある程度の額を借用したので、
ボーナスを頂くたびに返済した。
この2年間の期間は、返済していても、私たち夫婦の新婚時代は多少の貯蓄は出来たりした。

この後、私は生家の近くに一戸建てをして、土地、住宅建築まで多大な経費となり、
その上に若さの勢いで家屋の中に茶室を設けたりした。

家内は中学生から茶事を学んできたので、何かと単細胞の私は、
どうせ借入をするのだから、多少多くなっても大勢に影響がないと、高揚しながら、
住宅金融公庫を根底とし、幾つかの金融機関からローンを設定したりした。

こうした関係もあり、このローンが50代の初めの頃まで、
ボーナスを頂く度に若い時は30%前後、その後の40代は25%前後を返済していた。

この最初の2年間も私は奮戦して働いていたが、何かと家廻りの出費が多く家計は赤字となり、
私は蒼色吐息のような情態であったので、
結婚してから専業主婦だった家内は、デパートの和服売り場で契約社員として働き、
我が家の2年間の家計に、多大に貢献してくれたことも事実であった。

こうした私としては困窮してしまった2年間であり、
住宅に関する購入は、普通のサラリーマンの身としては、人生で一番高い買物かしら、
と心身実感させられた時代であった。

50代の初め、遅ればせながらローンの一括返済をした後、
老後の人生設計の基礎となす資金の為、貯蓄を大半し、定年退職を迎えた。

こうした中、ボーナスを頂だした週末の土曜日には、お世話になった知人、
私の母宅などに、お歳暮廻りをしたりしていた。

このようなボーナスを頂くたびの軌跡であったが、
どなたも同じと思われるが、サラリーマンの現役時代には大波、小波に遭遇し、
家内と共に何とか乗り切り、今日を迎えているのである。

私は築後36年の古惚けた家に住み、程々の広さの小庭で樹木を眺めながら、
あんな時代もあった、と思いを馳(は)せたりしている。
       

私は音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤めて、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。

しかしながら最後の5年間はリストラ烈風の中、30年間奮戦してきた本社から放り出されて、
出向となり、つたない私なりに失墜感にさいなまわれ、
まもなく自分の敵は自分だ、と自身を叱咤激励して奮闘し、出向先で定年を迎えた。
        

私はサラリーマンの身として、年収1千万円台で何とか卒業できたが、
大企業で栄進された方、或いは官公庁の上層部のように高額所得地位にも成れず、
程ほどの年収、退職金であったので、金融資産は程ほどである。

私の現役時代の財産といえば、その時代と共に過ごした名曲の数多くが心に残り、
そして上司、同僚、後輩と共に音楽業界の空気を共にできたことである。

或いは、OBの懇親会などの会合の時なので、流行(はや)った曲名でその時代を表現し、
そうだったよね、とお互いにうなづいたりしている・・。
       

定年した後、多々の理由で年金生活を始めて、近くの遊歩道などを散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下がりのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりする。

或いは平日でも人の多い都心に買い物に行ったり、
最寄の駅前などで、働いて下さる現役の諸兄諸姉の溌剌な姿を見たりする時は、
何かと短期で成果を問われる今日、常時リストラ時代、といわれたりして過酷な時代になっている、
と深く憂いたりしている。

私は何かと働いて下さる現役の諸兄諸姉に注視するのは、
もとより日本の社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用は、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えている現実からでもある。

ときおり私たち夫婦は、国内旅行に行く時、東京駅とか羽田空港の待合所で、
やはり働いて下さる現役の諸兄諸姉の多忙なしぐさ、会話を聞いたりすると、
こうして私たちが、のんびりと旅行するのに申し訳ないと思ったりしていることが多い。

そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。
       

しかしながらこの世の哲学である齢を重ねるたひに、
出逢う人は少なくなり、会社時代の知人、友人、親戚の方たちの現世との別れもあり、
ときおり溜息〈ためいき〉をすることもある。

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高齢夫婦無職世帯一カ月の平均収支の実態、私は3年前に学び、微苦笑して過ごし・・。

2014-12-04 15:04:21 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
       

今朝のひととき、私の机の横にある小さな本棚を整理していた時、
雑誌の『プレジデント』が8冊ばかりあった。

この雑誌は特集記事に関心を抱いた時に購読している雑誌のひとつであるが、
中には古い2012.1.16号があったので、
どうして捨てなかったの、と思いながらパラパラと見たりした。

そして特集記事として、《 金持ち老後、貧乏老後 》と記載され、
やはり年金生活で、高齢者の我が家としては気になったので、買い求めたのかしら、
と苦笑したりした。

この雑誌の中に、私が栞(しおり)が挿入していたので、
この31ページを開いたら、『高齢夫婦無職世帯一カ月の平均収支は?』と題して、
各表と具体的な金額が明記されていた・・。
       

無断ながら一部を引用させて頂く。
《・・
◎高齢夫婦無職世帯一カ月の平均収支
   収 入・・・22万3757円
         公的年金など・・・20万8080円
         その他・・・・・・・1万5677円
   支 出・・・26万4948円
         税金など・・・・・・3万 393円
         食 費・・・・・・・5万7935円
         住 居・・・・・・・1万4921円
         光熱費・・・・・・・1万9220円
         教養娯楽・・・・・・2万9315円
         保険・医療・・・・・1万4959円
         その他・・・・・・・9万8205円(注・算出)
   赤 字・・・ 4万1191円

     出所・・総務省「家計調査報告」(平成22年)をもとに作成


◎平均的な老後のためにいくら必要か
    60歳~65歳 無年金期間の生活費
         26.5万円x12カ月x5年=1590万円
    65歳~90歳 年金では足りない金額
         4.1万円x12カ月x25年=1230万円
                      計=2820万円
    +もしもの介護や病気に備えるお金
                    200万~300万円
                      
                   総計・・約3000万円
・・》
このように表示されて、この下段には、
◎ゆとりある生活費は月平均36万6000円
◎ゆとりある老後のためにいくら必要か
表示されているが、省略する。


今回、再読して何かと経済にも疎(うと)い私が、
過ぎし年に信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの寄稿文を読んだ中、
デフレ経済の蔓延している中、公的年金を受け取りながら堅実に年金生活をし、
預貯金が3000万円あれば、少しづつ取り崩して生活すれば、少しはゆとりのある年金生活ができるかしら、
と学んだりしてきたので、こような根拠だったかしら、と微苦笑したりした。
       

私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市(当時は北多摩郡神代村)の片隅の地域で、
1944年(昭和19年)秋に農家の三男坊として生を受けた。

そして私は小・中学生の頃は劣等生のひとりであったが、
小学4年生の頃から独りで映画館に通った映画少年のひとりで、
やがて高校生に突然に読書の底知れぬ魔力に取りつかれてたりした。

そして大学を中退し、映画・文学青年の真似事をして、4年ばかり奮戦したが、無念ながら敗退した。

その後、やむなく民間会社に中途入社する為に、コンピュータの専門学校に1年学んだ後、
何とか民間会社に中途入社でき、遅れた社会人となったのは25歳の時であった。

そして35年近く勤めて、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。

しかしながら最後の5年間はリストラ烈風の中、30年間奮戦してきた本社から放り出されて、
出向となり、つたない私なりに失墜感にさいなまわれ、
まもなく自分の敵は自分だ、と自身を叱咤激励して奮闘し、出向先で定年を迎えた。

もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに38年勤め栄進されたエリートとは、
遥かに遠い拙(つたな)い男である。
       

たまたま中小業の音楽業界のあるレコード会社の管理、情報畑などに35年近く勤めてきたが、
中流家庭の多くの方たちが、大学卒業後に程ほど民間会社に入社し、
38年勤めて定年退職を迎えるケースの人たちに、
遅ればせながら年収も含めて何とか追いつきたい、と私なりに秘かな願望があり、奮闘した。

こうしたことが根底があったので、年金生活に入る前には、
『厚生労働省のモデル世帯の年金額』などを強く意識させられたりした・・。


このように私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多い中で、
敗残者のような状況だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活を始めた。
       

こうした中で私たち夫婦は、子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
長き結婚生活の中に於いて、最大の誤算となっている。

こうした影響の為か、私は何かとおしゃべりなので、家内と結婚前に交際していた時から、
私は家内に対して、XXちゃん付けで呼んだりしている。

そして私たち夫婦は語り合うことが多く、旅先の宿泊の食事処で、会話のないご夫婦を見かけると、
私は幾たびか驚いたりしてきた。

そして世の中の多く人たちから、人生の3大支出は教育資金、住宅資金、老後資金と言われたりしているが、
たまたま我が家は子供の「教育資金」は不要となったので、
定年した直後から年金生活を開始できたことも事実である。
       

私の日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
       


我が家の生計は原則として、私たち夫婦はお互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂いた範囲で、
通常の生活費するのが原則としている。

そして耐久品の購入、共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して、ここ10年を過ごしてきた・・。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

このように私たち夫婦は、経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしているのが、
我が家の実態である。
       

もとより《ゆとりある》生活などは際限はなく、
高齢者は確かな《いきがい》と《健康》そして《気力》を持ち、日々を過ごしているか、
何よりも重要だょ、と敗残者だった私は微苦笑している。

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お歳暮、年金生活をすれば、やがてわずか一軒となり・・。

2014-12-03 16:10:50 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

定年後の年金生活の当初から、私は平素の買物に関しては自主的に専任者となり、
独りで毎日のように最寄りのスーパー、専門店に行ったりしているが、
昨日は買物をする前に、郵便局に立ち寄ったのである。

何かしら『固定資産税』と『国民健康保険』の分割払いが、
今回は12月25日まで納期期限となっていたので、振込依頼をしたりした。

そして12月15日になれば、私と家内の『厚生年金』がそれぞれ振り込まれてきて、
『都民・市民の住民税』と『介護保険料』は自動的に支払う規約になっているので、
今月の公的な支払いは終えた、と私は安堵したりした。
       

やがて帰宅後、私は家内と談笑している時、
『お義兄さんの所の「お歳暮」、いつものようにお願いねぇ・・』
と家内から私は言われたりした。

『はい! 了解致しました!』
と私はボケてはいけないと、若き自衛官の真似事をして大きな声で応(おう)じたりした。

この後、お歳暮のシーズンかょ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
ここ2週間ぐらい新聞の折込チラシで、ときおりデパートなどの『お歳暮』の広告が入っているのを、
思い浮かべて微苦笑したりした・・。
       

私はサラリーマンの時代でも、お中元、お歳暮などの社交辞令は苦手であったので、
なるべく避けていた。

しかしながら不得意な私でも、やはり私の母、そして私の生家である長兄宅には、
私が独立した時からは、欠かさずに訪問をしたりしてきた。

私の母は私が54歳の時に病死したが、生前の10年間は、
私たち夫婦は、最寄駅のひとつ『成城学園前駅』の近くにある『成城石井(旧・石井食料品店)』に立ち寄り、
お惣菜売り場で6品ぐらい『お歳暮』代わりに買い求めた。

こうしたことは私が40歳を過ぎた頃から、成城石井のお惣菜売り場で買い求めた3品ばかりを、
何か母宅に訪れた時に手渡した時、母は私が予測した以上に悦こび、私は母が亡くなる続けたりした。

こうしたささやかな成功体験があり、お中元、お歳暮の時に、お惣菜の品数を増やして、
私はボーナスを頂いた後なので、いくばくかお金を包んて渡したりしていた。

しかしながら母の住んでいた川崎市登戸新町の宅を私たち夫婦は訪れた時、
私は最寄の酒屋に立ち寄り、地酒2合瓶を買い求めたりしたりした。

そして母宅で3人で談笑しながら、『お歳暮』代わりにお惣菜の品々をお互いに食べたりし、
私は地酒を呑みながら、談笑を重ねていたので、
果たしてお歳暮の範疇に入らないか、ともいえたりする。
       

私はお中元、お歳暮も不得意な私でも、やはり人生の岐路にたたされた時、
或いは救いの手を差しのべて下さった方には感謝して、
年賀状を送信し、お中元、お歳暮の時は、ご自宅に訪問させて頂いた。

私の就職、結婚の時は、特にご尽力を頂いて、感謝している方である。
               、
私が大学を中退し、アルバイトや契約社員などをして映画・文学青年の真似事しはじめたのは、
東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)であった。

その後、あえなく敗退して、やむなくサラリーマンに転身する為に、
コンピュータの専門学校を一年ばかり学び、安定した大手の民間会社に中途入社を希望していた。

こうした中、私の生家の遠い親戚の資産家のお方から、
このお方の知人で、この当時は大手の映像・音響メーカーの首脳陣のひとりのお方を紹介して頂いた。

そして、この首脳陣のお方のご尽力もあり、
私はこの大手の映像・音響メーカーに中途入社できたのは、1970年(昭和45年)4月であった。

入社してまもなく音楽部門のひとつの大手レーベルが、
レコード会社として独立し新設されたので、私は異籍させられ、
中小業であるレコード会社に35年近く勤めて、2004年〈平成16年〉秋に定年退職となった。
          

この間、この首脳陣のお方のご自宅にお中元、お歳暮のたびに訪問した時、
温かなまなざしで私に応対してくれた。
そして奥様もさりげなくつつみこんで下さり、このご夫婦から高潔さを私は教示を受けた。

その後、私が結婚する時に、ある格式ある式場を懇願して紹介して頂いたので、
ご夫妻に披露宴に参列して頂いたりし、私たち夫婦は何かとお世話になった。

このような形を25年過ぎれば、私も齢を重ねたが、
このお方、奥様からはお逢いし話すたびに、茶事、庭、絵画、音楽などの素養が格段違う、
と私たち夫婦は実感させられたりした。

やがて私の定年退職の時、私の日常生活ではとても口に出来ない美酒を頂戴した後、
まもなくこのお方は、ご高齢であったので、亡くなわれた。
          
そして告別式に私たち夫婦は参列した時、改めて高潔なお人であった、
と思いを深めたりした。

しかし、民間会社の大手の首脳まで栄達されたお方であったから、
もとより怜悧な力量もあったと思われるが、
私たち夫婦はこのお方の限りなく優しいプライベートの面しか接してこなかったのも、
事実でもある・・。

しかしながら私にとっては、小学2年の時に父に病死されたこともあり、
慈父のような人と秘かに36年ばかり思い続けたお方でもあった。
              

このように私は母は病死、恩人のお方も逝去され、私たち夫婦はお中元、お歳暮に関しては、
年金生活をしている中、はかなくも私の生家である長兄宅だけとなってしまった・・。

この間、家内の両親には、家内が適時に品を送ったり、いくばくかお金を送ったわ、
と私は家内から聞いたりしてきた。

そして本日の午前中のひととき、お歳暮に品を買い求めに最寄駅ひとつの『狛江』駅に向かって歩いた。
我が家の周辺は幾つかの最寄駅まで、路線バスは利便性は良いが、
根がケチな為か、私は殆ど歩いたりしている。

私の住む所は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅であるが、住宅街の外れにあるが、
家並みが密集している。

そして近くには野川が流れている。たとえば上流に向かっても、遊歩道沿いに家が密集している。
       

或いは下流に向かっても、遊歩道沿いに家が密集している。(逆光があったが撮った)
       

このような状況であるで、私は遊歩道、小公園、公園など歩くと、解放感につつまれ、
ひたすら歩くことが多いのである。

やがて住宅街の中、やや小さな寺院の前を通り過ぎた。
       

この後は、やはり住宅街の中に遊歩道があり、四季折々こよなく愛している道を歩いたりした。
       

私が駅ビルの中にある専門電店で買い求める品は、和菓子にも拙〈つたな〉い知識しかない私が、
ここ10数年、新年、春のお彼岸、お中元、夏のお盆、秋のお彼岸、お歳暮などの時、
実家、知人宅に選定している和菓子がある。

文明堂の三笠山であり、この詰め合わせを愛用している。
三笠山を中核に、ゆず、白桃、あんず、抹茶、栗などの風味の品が、
それぞれの季節に応じてあるので、私なりに調和して詰め合わせにして、進呈しているのが、
ここ10数年の習わしのようになっている。

もとより味覚も良く、色合いも良く、そして日持ちも良いのである。
その上、高齢者から幼年者まで、どなたでも賞味できるので、
我が家が愛用している品のひとつとなっている。

これ以前は高価な紅茶セット或いは山本山の海苔セットを買い求めたりしていたなぁ、
と思い馳せたりしていた。

このようなことを漠然と思い馳せながら歩いたりした。
       

やがて遊歩道から、路線バスも通り大通りを5分ばかり歩くと、『狛江』駅が視えたりした。
       

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コメント (2)
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