遊爺雑記帳

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竹島が映す韓国の「言った者勝ち、やった者勝ち」

2021-02-20 01:23:56 | 竹島
 2月22日は島根県が条例で定めた「竹島の日」。
 太平洋戦争の終戦時の混乱期、韓国が「李承晩ライン」を設定し不法占拠を続けている竹島について、韓国で日韓ママライターとして活躍しておられる、金 遥楽(キム・ハラ)さんが、歴史を紐解いて解説しておられます。
 慰安婦像の勝手な設置も竹島の不法占拠も、「言った者勝ち、やった者勝ち」の心理から来る韓国のお家芸だと。
 韓国に居住しておられて、このような主張をされていて、大丈夫かと心配してしまいますが。
 
竹島が映す韓国の「言った者勝ち、やった者勝ち」 2月22日の「竹島の日」を前に竹島問題の歴史を振り返る(1/3) | JBpress(Japan Business Press) 2021.2.19(金) 金 遥楽(キム・ハラ) 日韓ママライター

 2月22日は島根県が条例で定めた「竹島の日」だ。竹島を巡っては、日韓間で終わりの見えない論争が続いている。その「竹島の日」を目前に控えた今、過去の文献や地図、歴史などをあらためて検証してみたい。

 竹島(韓国名トクト<独島>)の領土問題を語る時、当然ながら
過去の地図や文献を根拠に論ずるべきだが、過去の名称と現在の名称が異なっているなど、明確にし難い部分がある韓国の過去の地図や文献には、鬱陵島(ウルルンド)や于山島(ウサンド)などさまざまな記述があり、文献上の名称がどの島嶼を指すのか特定する必要があるが、異なる複数の解釈があり、どの説を根拠にするかで変わってしまう

 韓国には1900年の大韓帝国皇帝勅令に出てくる「石島」(ソクト)が、今のトクト(日本名・竹島)だと主張する説がある。しかし、「石島」という名称は、それ以前の文献にはなく、また勅令の後も行政区域の改編で消えてしまって、今となってはどの島を指すのかわからない。

 鬱陵島の近くに「観音島(クァヌムド)」と「竹島(チュクト)」という2つの島がある。この「観音島」は「石島」の可能性が高いが、過去にたった一度だけ登場し、すぐに消えてしまった「石島」という名前を根拠にトクトと主張するのはあまりにもお粗末だ。なお、「チュクト(竹島)」は日本の「竹島(韓国名トクト)」とは別の島である。

 竹島は、
1402年に李氏朝鮮で作成された世界地図 「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」には記載されておらず、朝鮮王朝が竹島を認知していなかったと考えるのが妥当だろう。その後は、18世紀まで島の記載がある地図とない地図があり、また位置の誤りなどもある。朝鮮王朝が竹島を認識していたかどうか疑問である。

李氏朝鮮の時代も今も変わらぬ精神性
 
江戸時代、竹島は「松島」と呼ばれた無人島で、鬱陵島に向かう航行の目印や停泊地として利用され、のちに江戸幕府の許可を得てアワビ漁なども行われていた

 
18世紀中期に作成された朝鮮の地図帳「海東地図」の「鬱陵島図」には鬱陵島に日本人が出入りしていたという記載がある。もし韓国がトクトを認識していたのなら、当時の日本人が鬱陵島へ向かう中間地点として竹島を利用していたことは理解していたはずだし、その記述があっても不思議ではない。

 しかし、
「鬱陵島図」にトクトに関する記述はない1417年から1881年まで朝鮮は鬱陵島への渡航・居住を禁止していたことから、19世紀後半にはまだ竹島を認識していなかった可能性が高いと考えられる。

 
竹島問題の解決を図るには1876年の日朝修好条規以降の日韓それぞれの記録を照合して、比較検証すべきだろう。

 西欧諸国がアジアに侵攻し始めた時代、朝鮮は清国との伝統的な関係を維持しつつ、西欧列強侵攻からの「一定の保護」を求めて日朝修好条規を結んだ。いまだ
清の力を信じていた朝鮮は、清には属国のような曖昧な態度を取りながら、諸外国と条約を結んで良いとこ取りをする外交を目論んだのだ。どっちつかずの態度が垣間見えるが、現政権の外交姿勢とそれほど変わらないようにも思う。

 日朝修好条規は不平等条約だったという主張がある。だが、当時、西欧に対して鎖国をしていた朝鮮は国際情勢が変わっていることを部分的には知っていても全体的に把握することはなく、先に開国した日本から西洋式文化をとり入れようとする声が上がっており、日本からの一方的な強要で結ばれた条約では決してなかった。

 
後から知らぬ存ぜぬで被害者意識を前面に主張して反故にしようとする姿は、現在の悪化している日韓関係の根底にある心理と重なり、昔と変わらぬ韓国の姿を想起させる

曖昧な態度が韓国の姿勢を増長させる
 その後、独立した
韓国は第二次大戦後のサンフランシスコ講和会議に参加できなかった。その会議で調印された平和条約で済州島、巨文島及び欝陵島を含む韓国の独立が認められたが、会議に参加できなかった韓国は竹島が日本領になっていることを認めないと主張し、1951年から1965年まで行われた日韓会談でも竹島に言及した。

 
竹島については、紛争に関する交換公文で「別段の合意がある場合を除くほか、両国間の紛争はまず外交上の経路を通じて解決するものとし、これにより解決することができなかった場合は、両国政府が合意する手続きに従い調停によって解決を図る」ことになっているが、外交にせよ、調停にせよ、双方の歩み寄りがなければ始まらず、日本の提案に韓国がノーと言えば何も進まない。

 
実際、日本側が国際司法裁判所に提訴しようにも韓国側が応訴の要請を聞き入れず、問題を先送りにした状態のまま、韓国は竹島を占拠して軍事訓練や観光ツアーを開始するなど、竹島がまるで韓国の領土であるかのように振舞うことで実効支配を目論んでいる慰安婦像の勝手な設置も竹島の不法占拠も、「言った者勝ち、やった者勝ち」の心理から来る韓国のお家芸だ。

 日韓会談で韓国は竹島問題よりも、補償問題の解決に重きを置き、日本からの無償3億ドル、有償2億ドルの提供を受ける内容で決着した。当時、韓国の国家予算は3.5億ドルである。この金銭で 「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を果たしたが、国民に明確に示さなかった徴用工問題は、その後に提起された慰安婦問題と併せて現在も禍根を残している。竹島も然りで、
日韓会談で曖昧な決着を出した結果が今の竹島問題の深刻化につながり、自分勝手な主張を押し通す韓国の姿勢を増長させた

 結局、日韓合意の内容を詳細に確認し合わなければ竹島問題のみならず、日韓間の歴史的諸問題は真の解決をみないのだ。
新年の会見で文大統領は65年の日韓合意を「両国政府間の公式合意」と認めたが、竹島問題についても日韓条約の交換公文に倣った態度で臨んでほしいものだ。

 鍵となる国際条約や書簡
 日朝修好条規 - Wikipedia
 ラスク書簡 - Wikipedia
 サンフランシスコ平和条約 - Wikipedia
 日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約 - Wikipedia
 
 金さんが、竹島(韓国名トクト<独島>)の領土問題を語る時、当然ながら過去の地図や文献を根拠に論ずるべきだが、過去の名称と現在の名称が異なっているなど、明確にし難い部分がある。韓国の過去の地図や文献には、鬱陵島(ウルルンド)や于山島(ウサンド)などさまざまな記述があり、文献上の名称がどの島嶼を指すのか特定する必要があるが、異なる複数の解釈があり、どの説を根拠にするかで変わってしまうと述べておられる通りで、韓国での過去の資料が混乱していることが、韓国側での解釈の混乱があるというのが歴史認識の真相なのですね。

 竹島は、1402年に李氏朝鮮で作成された世界地図 「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」には記載されておらず、朝鮮王朝が竹島を認知していなかったと考えるのが妥当だろうと金さん。
 
 一般的には、1618年(元和4年)、伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛らが、幕府から許可を得て“竹島”(現在の鬱陵島)に渡航。1692年(元禄5年)、“竹島”(現在の鬱陵島)に出漁した大谷・村川の一行が朝鮮人と遭遇。翌年にも遭遇し、安龍福と朴於屯の2名を米子に連行したのを契機に、日本と朝鮮との間に紛争が発生(竹島一件)したとされていますね。
 竹島 - Wikipedia

 江戸時代、竹島は「松島」と呼ばれた無人島で、鬱陵島に向かう航行の目印や停泊地として利用され、のちに江戸幕府の許可を得てアワビ漁なども行われていたと金さん。
 18世紀中期に作成された朝鮮の地図帳「海東地図」の「鬱陵島図」には鬱陵島に日本人が出入りしていたという記載がある。
 しかし、「鬱陵島図」にトクトに関する記述はない。1417年から1881年まで朝鮮は鬱陵島への渡航・居住を禁止していたことから、19世紀後半にはまだ竹島を認識していなかった可能性が高いと考えられると。

 竹島問題の解決を図るには、1876年の日朝修好条規以降の日韓それぞれの記録を照合して、比較検証すべきだろうと。

 両国の学者が共同で協議したことはありましたが、挫折しましたね。
 日韓歴史共同研究 - Wikipedia

 朝鮮は清国との伝統的な関係を維持しつつ、西欧列強侵攻からの「一定の保護」を求めて日朝修好条規を結んだ。清には属国のような曖昧な態度を取りながら、諸外国と条約を結んで良いとこ取りをする外交を目論んだのだ。どっちつかずの態度が垣間見えるが、現政権の外交姿勢とそれほど変わらないようにも思うと金さん。
 日朝修好条規は不平等条約だったという主張がある。だが、当時、先に開国した日本から西洋式文化をとり入れようとする声が上がっており、日本からの一方的な強要で結ばれた条約では決してなかったと。
 後から知らぬ存ぜぬで被害者意識を前面に主張して反故にしようとする姿は、現在の悪化している日韓関係の根底にある心理と重なり、昔と変わらぬ韓国の姿を想起させるとも。

 第二次大戦後のサンフランシスコ講和会議に韓国は参加できなかった。その会議で調印されたサンフランシスコ平和条約で済州島、巨文島及び欝陵島を含む韓国の独立が認められたが竹島は認められなかったのでした。
 韓国は竹島も韓国領に含む様申請したのですが、韓国の申請内容で竹島の認識が曖昧で却下されたことは、ラスク書簡で明記されていて、諸兄がご承知の通りです。

 日韓国交樹立に向けた、日韓基本条約の締結では、韓国は竹島問題よりも、補償問題の解決に重きを置き、日本からの無償3億ドル、有償2億ドルの提供を受ける内容で決着した。当時、韓国の国家予算は3.5億ドルである。この金銭で 「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を果たしたと金さん。
 
 竹島については、サンフランシスコ平和条約が発効することによって、「マッカーサー・ライン」が無効化されることを見越した韓国・李承晩大統領が、「マッカーサー・ライン」の代替として一方的に「李承晩ライン」を設定し、不法占拠を始めたこちは、衆知のことです。

 日本は、国際司法裁判所に提訴を繰り返していますが、「選択条項受託宣言」をしていない韓国は、司法の場から逃げているのですね。
 
 過去の日韓関係の改善を積み重ねた実績をことごとく否定し、戦後最悪の日韓関係を産み出した文在寅政権。
 日本の歴代政権は、寛容な態度で、ゴールポストを動かす歴代韓国政権の要望に応じてきましたが、朴槿恵政権との日韓合意で、最終合意として今後は歴史問題を繰り返さないとした「日韓合意」を覆した文在寅政権。
 安倍政権は、一線を画すと決断し、今日に至っていることは、諸兄がご承知の通りです。

 竹島の韓国の不法占拠の国際司法の場での解決は、国際司法裁判所では、「選択条項受託宣言」で逃げる韓国との裁きは出来ません。
 フィリピンが東シナ海での中国との領有権争議を、「選択条項受託宣言」で逃げることが出来ない、不在でも裁定出来る、仲裁裁判所に提訴し、中国の不法占拠の裁定を勝ち取りました。
 不法占拠とは言え、長期の実績が続けば、実績が尊重される可能性があります。
 竹島に関しても、国際司法裁判所ではなく、仲裁裁判所への提訴に方針変更することを提唱します。少なくとも、そのカードを公言し、韓国に交渉の場へ出てくる様促すべきと考えますがいかがでしょう。


 
# 冒頭の画像は、竹島で軍事訓練を行う韓国軍




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