遊爺雑記帳

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竹島が、日本領である主張を補強する重要な資料のひとつとなる「米国政府作製の航空図」

2021-02-21 01:23:56 | 竹島
 サンフランシスコ平和条約で、竹島が日本領土と認定されたにもかかわらず、韓国が李承晩ラインを勝手に設定し、以後不法占拠を続けていることは衆知のことで、2月22日を島根県が「竹島の日」とし、返還を希求する活動を絶やさない努力をしています。
 韓国は、1905(明治38)年より前から「独島」と呼ばれていたと主張し、ラスク書簡で主張は却下され、サンフランシスコ平和条約で日本領と確定したにも関わらず、今日も不法占拠を続けています。
 少し古い情報ですが、米国空軍作製(=米国政府作製)の公的地図が発見され、米国では「独島」の認識はなく、サンフランシスコ平和条約締結時には、「竹島」を日本領として運用していたことが証明されたのだそうです。
 この地図の存在については、初耳ですので、備忘録としてアップさせていただきます。
 2017年の「竹島の日(2月22日)」に産経で報道されていたのですね。
 
【竹島を考える】戦時中の米軍地図に“動かぬ証拠”…竹島を「Take」と表記 「独島」呼称、認識されず - 産経WEST 2017.2.22

 第二次大戦中、米国が竹島(島根県隠岐の島町)について「Take」と表記した地図が見つかり、島根県に寄託されていたことが22日、分かった。当時、日本の統治下にあった朝鮮半島について、この地図では「鬱陵=Utsuryo」など元の表記を日本語読みした地名の記載が大半。竹島の呼称が一般化していたことを示す資料となりそうだ

 島根県竹島対策室によると、地図は、米国軍が戦時中の1945(昭和20)年5月に制作した布製の航空図「エスケープマップ(脱出地図)」(83センチ×78センチ)。日本侵攻に参加するパイロットらが遭難したり撃墜されたりした際に使用するよう携帯させた。

 400万分の1の縮尺で、一方の面には日本と南シナ海、もう一方の面には東シナ海が描かれ、季節ごとの風向きが異なる色で図示されている。
竹島問題の研究者が大阪府内の古書店で見つけ、島根県に寄託した

 地図では鬱陵島や済州島などは「Utsuryo」「Saishu」などと表記されているが、竹島は「Take」と記載。
竹島をめぐり、韓国政府は日本が編入する1905(明治38)年より前から「独島」と呼ばれていたと主張するが、少なくとも1945年当時の米国側に、この島は「独島」だという認識はなかったとみられる

 島根県竹島問題研究顧問の下條正男・拓殖大国際学部教授(日本史)は「『独島』という呼称が、当時の米国には認識されていなかったということ。こうした事実の積み重ねが、竹島が日本固有の領土であることの立証につながる」と話している。


 
竹島を日本領と記載する1953 年、1954 年の米国政府作製の航空図について 令和2(2020)年10月23日 公益財団法人日本国際問題研究所
 https://www.jiia.or.jp/column/20201023-usaf-navigation-chart-1953-1954.html

日本国際問題研究所では、領土・主権・歴史の分野において、調査研究及び対外発信事業を実施するため、平成29(2017)年に「領土・歴史センター」を設置しました。同センターでは、①我が国の領土・主権・歴史に関する国内外の資料の収集・整理・対外発信等、②同分野に関する国内外での公開シンポジウムの実施、及び③同分野に関する調査研究の実施等の事業を展開しています。

平成30(2018)年2 月からは、古地図での竹島の記載状況を明らかにするため、国内の図書館、公文書館、国土地理院、海上保安庁海洋情報部を中心に、歴史地理学及び地図史の観点から、
竹島関係の古地図の調査を、舩杉力修(ふなすぎりきのぶ)・島根大学法文学部准教授に依頼して実施しています。令和元(2019)年度からは、新たに外国製の公的地図の調査に着手しました。令和元(2019)年度は、米国国立公文書館において、第二次世界大戦後の航空図を中心に、米国政府作製の地図について、民間調査会社に委託して実施しました。その結果、米国国立公文書館において、竹島を日本領と記載する、1953 年及び1954 年の米国政府作製の航空図2 点を発見しました。これらの航空図は、竹島が我が国の領土であることが確認された、1951 年9 月調印、1952 年4 月発効のサンフランシスコ平和条約の内容を反映していると考えられます。その概略は別紙の通りです。別紙については、調査者の個人的見解であり、日本国際問題研究所の見解を代表するものではありません。


【別紙 1】調査成果の概要
竹島を日本領と記載する 1953 年、1954 年の米国政府作製の航空図について

 https://www.jiia.or.jp/column/2020/10/20201023_besshi_01.pdf

<前略> 
 4.特記事項
(1)この 2 枚の航空図は、米国空軍作製であることから、米国政府作製の公的地図である。したがって、この航空図から当時の米国政府の地理的認識を読み取ることができる。
(2)この 2 枚の航空図では、竹島と隠岐諸島との間に、韓国と日本の ADIZ(防空識別圏)が記載されている。 韓国政府の一部関係者及び韓国側の研究者が、竹島が韓国側の防空識別圏に入っていることから、竹島は韓国領として承認されたと主張している。しかしながら、
防空識別圏は、一般的に、各国が防空上の観点から国内措置として設定しているものであり、領空・領土の限界や範囲を定める性格のものではない。 また同様の国境線は、対馬と釜山の間の対馬海峡西水道、五島列島と済州島との間にも記され、ADIZ(防空識別圏)とは別に記されている。したがって、ADIZ の記載は、竹島の領有権の根拠にはならない
(3)
この 2 枚の航空図では、鬱陵島と竹島との間に、韓国と日本の国境線が記されていることから、竹島が日本領として記されていることが確認できる。つまり、米国政府は当時竹島を日本領と認識していることが確認できる。いずれも発行年は 1953 年、1954 年で、サンフランシスコ平和条約発効直後であることから、この地図の記載は、サンフランシスコ平和条約の内容を反映していると考えられる。
(4)該当の航空図の前の版の記載と比較すると、①の前の地図は、縮尺が 300 万分 1 と異なるものの、U.S. ARMY AIR FORCE LONG RANGE AIR NAVIGATION CHART,LR-17,YELLOW SEA,10-50,7st EDITION*1)(米国陸軍航空軍長距離航空図、LR-17、黄海、1950 年 10 月、第 7 版改訂)【別紙 6】にあたるが、竹島、'LIANCOURTROCKS'と西洋名(フランス名)、最高標高点をフィートで示す'515'、そして、米軍の訓練区域を示すと考えられる*2)、'DANGER AREA'(危険区域)と記しているのみで【別紙 7】、島嶼の国境線は記していない。②の前の地図は、縮尺が同じ 50 万分 1 である、AAFAERONAUTICAL CHART,379DG,TO DONG,CENTRAL JAPAN,3-51,1st EDITION
(米国陸軍航空軍航空図、379DG、道洞、中央日本、1951 年 3 月、第 1 版)にあたるが【別紙 8】、竹島には、'LIANCOURT ROCKS'と西洋名(フランス名)、最高標高点をフィートで示す'515'、そして、米軍の訓練区域を示すと考えられる、'DANGERAREA'(危険区域)と記しているのみで、島嶼の国境線は記していない。
これらの地図は、サンフランシスコ平和条約調印直前に発行されたものである。平和条約調印直前の航空図では、島嶼の国境線は記されていない。これは、平和条約調印以前で、わが国の領土が法的に確定する前であったことによると考えられる。したがって、①と②の航空図は、平和条約直後の米国政府の地理的認識を示し、平和条約の内容を反映していると考えられる。

*1)①の直前の地図は、U.S. ARMY AIR FORCE LONG RANGE AIR NAVIGATIONCHART,LR-17,YELLOW SEA,3-53,8st EDITION Revised(米国陸軍航空軍長距離航空図、LR-17、黄海、1953 年 3 月、第 8 版)で、平和条約発効直後の発行であるが、この航空図には竹島が記されておらず、また島嶼の国境線も記されていない。
*2)竹島は占領下の 1947 年 9 月 16 日の SCAPIN1778 号において、米軍の爆撃訓練区域に指定された。①と②の前の航空図はそれを反映している。

(5)
サンフランシスコ平和条約での朝鮮放棄条項*3)では、放棄する領土に竹島が列挙されておらず、また、韓国政府のサンフランシスコ平和条約草案への要望に対する米国政府の回答にあたる、1951 年 8 月 10 日付、米国国務次官補のラスクからの書簡においても、日本が放棄する領土に竹島を入れるようにとした韓国政府の要求が米国政府により却下されていることから、平和条約において、竹島が日本領として保持されたことはすでに自明の理であるが、韓国政府は、平和条約での竹島の扱いについて、1954 年 9 月 25 日の「独島(竹島)領有権に関する日本政府の見解を反駁する韓国政府の見解」では、「対日講和条約には独島に対する韓国の正当な領有権主張に矛盾する条文はない。そして同条約第1章第 2 条 A 項により、独島が鬱陵島の属島として鬱陵島本島と共に韓国領土として承認されたと解釈される」とし、また最近では、韓国・外交部のホームページ「韓国の美しい島 独島」のなかの「大韓民国の領土である根拠」の「サンフランシスコ平和条約の締結」において、「サンフランシスコ平和条約は、第 2 次世界大戦終結のため、連合国と日本の間で締結された条約です。この条約の第 2 条(a)で「日本は韓国の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む韓国に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定しています。この“済州島、巨文島及び鬱陵島”は韓国の 3千あまりの島嶼の例に過ぎず、独島が直接明示されていないからといって独島が韓国の領土に含まれていないと見ることはできません」と、平和条約の内容を解釈している。

*3)「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」

(6)しかしながら、韓国政府の主張、サンフランシスコ平和条約において、竹島が鬱陵島の属島として韓国領と承認されたとか、サンフランシスコ平和条約の領土事項が例示的な列挙で、日本が放棄する領土に竹島が含まれるという解釈は、平和条約の起草国である米国政府が平和条約発効直後に作製した航空図において、鬱陵島と竹島との間に国境線が引かれ、鬱陵島を韓国領、竹島を日本領としていることから、
韓国政府の主張はいずれも根拠のない主張であるといえ、否定されたこととなる
(7)さらにいえば、米国政府の見解は、1954 年 8 月の米国政府の機密文書であるヴァン・フリート特命報告書において、「日本との平和条約が起草されていた時に、韓国は独島の領有を主張したが、米国は同島は日本の主権下に残り、日本が放棄する島の中に含まれないと結論づけた。米国は内密に韓国に対し、米国の認識を通知しているが、その内容は公表されていない。米国は同島が日本の領土であると考えているが、紛争に干渉することは拒んでいる。我々の立場は紛争が適切に国際司法裁判所に付託されることであり、非公式に韓国に伝達している」とあり、平和条約の調印・発効の時期と、この航空図の発行の時期との間で、米国政府が竹島を日本領と認識していることは変わっていないことが確認できる。
(8)
これら 2 点の航空図の意義としては、2 点の航空図はサンフランシスコ平和条約発効直後の米国政府の地理的認識を反映していると考えられる。すなわち、サンフランシスコ平和条約及びそれを補完するラスク書簡の記載内容を反映していると考えられる。サンフランシスコ平和条約発効直後の米国政府作製の地図において、竹島が日本領と記載されていることが確認されたのは初めてである韓国政府の主張、サンフランシスコ平和条約の領土条項は例示的な列挙に過ぎないとか、竹島が鬱陵島の属島であり、鬱陵島とともに韓国領土と見なされたといった主張は、今回米国国立公文書館で発見された航空図により、否定されたこととなるしたがって、国際法上、竹島が韓国領であるとは言えず、韓国側が竹島を不法占拠していることが改めて確認できた。2 点の航空図は、竹島が戦後日本領として保持されたとする、わが国の主張を補強する重要な資料の一つであるといえる。今後も米国など国外の公文書館、図書館等での調査を継続していく予定である。

 第二次大戦中、米国が使用していた、竹島(島根県隠岐の島町)について「Take」と表記した地図が見つかっていたのだそうです。
 当時、日本の統治下にあった朝鮮半島について、この地図では「鬱陵=Utsuryo」など元の表記を日本語読みした地名の記載が大半。竹島の呼称が一般化していたことを示す資料となりそうだとの産経の記事ですが、全く知りませんでしたし、話題になったのは見聞していませんでした。
 調査をした、公益財団法人日本国際問題研究所が、2020年10月付で発表していました。

 産経の報道では、地図は、米国軍が戦時中の1945(昭和20)年 5月に制作した布製の航空図「エスケープマップ(脱出地図)」(83センチ×78センチ)。日本侵攻に参加するパイロットらが遭難したり撃墜されたりした際に使用するよう携帯させたもので、竹島問題の研究者が大阪府内の古書店で見つけ、島根県に寄託したとのこと。
 日本国際問題研究所の発表では、舩杉力修(ふなすぎりきのぶ)・島根大学法文学部准教授に調査依頼して、米国国立公文書館において発見されたと。
 2 枚の航空図では、鬱陵島と竹島との間に、韓国と日本の国境線が記されていることから、竹島が日本領として記されていることが確認できる。つまり、米国政府は当時竹島を日本領と認識していることが確認できる。発行時期は、1953 年、1954 年で、サンフランシスコ平和条約発効直後であり、サンフランシスコ平和条約の内容を反映していると考えられると。
 サンフランシスコ平和条約は、1951年9月に各国が署名していますから、産経の記事のものと、日本国際問題研究所で発見されたものは、発行時期は異なります。版が色々ある様子は、日本国際問題研究所の発表資料で伺えますね。いずれにしろ、(韓国領の)独島の存在には米国側には認識がないようです。

 韓国側からの、サンフランシスコ条約で日本が放棄し、韓国領とする島の対象に竹島を含める要求は、ラスク書簡で回答された通りで、韓国領と認められていません。(存在場所を確認された韓国が答えられなかった。)

 いずれにしても、サンフランシスコ平和条約発効直後の米国政府作製の地図において、竹島が日本領と記載されていることが確認されたのは初めてで、韓国政府の主張、サンフランシスコ平和条約の領土条項は例示的な列挙に過ぎないとか、竹島が鬱陵島の属島であり、鬱陵島とともに韓国領土と見なされたといった主張は、今回米国国立公文書館で発見された航空図により、否定されたこととなると、舩杉力修島根大学教授。
 竹島が韓国領であるとは言えず、韓国側が竹島を不法占拠していることが改めて確認できたと。

 これまで見聞しなかった米国政府作製の地図。今後は日本政府も事ある毎に、サンフランシスコ平和条約で決められて運用された証拠として広くアピールし、韓国の実効支配が国際条約に照らして違法であることを多くの国々に知らせる努力をすべきですね。



 # 冒頭の画像は、米軍が戦時中に制作した布製航空図。竹島は「Take」と表記されている




  この花の名前は、ホトケノザ



 1953年6月、島根県が竹島に建てた日本の領土であることを示す標柱

竹島に関する動画 / 政府広報 - YouTube


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写真素材のピクスタ


Fotolia




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