あれからずっと、ふとしたおりに 母を思い出す日々が続いています。
母を「母」として思い出すと、どうしても「もう会えないんだ」という悲しみに行き着いてしまう。
でも、ちょっと焦点をずらすと、また違うものが見えてくることもあるんですね。
3月29日から4月8日にかけて奈良に行ったとき、私はまだ母への怒りを克服できず葛藤していたものでした。
そして、その次 4月22日に行ったときには、母はいろんな力をどんどん失って 幼い子どものような姿に還ってしまいました。
歩くことはもちろん、自力で立つことも身の回りのことも出来なくなって。
そんな姿を見たとき、やっと。。。というのかな、私の中で 怒りを越えて 母へのいたわりの思いが大きくなったのでした。
母はなんであんなに頑強に医者にかかることを拒むのだろう。。。
年明けからずっと心にかかっていた疑問でした。
この歳で 苦しい治療を受けたくない、というのはわからないでもないけど、喘息やむくみなどの症状に 何も手を打たないことでの苦痛の方がどんどん大きくなっている今、このままにしておいていいはずがないことぐらいはわかっているだろうに、と。
そして、あれこれさんざん考えたあげく、ふと浮かんだのが、
「母は 甘えたりいたわられたりする立場になりたかったんじゃないかな」
母は 7人兄弟の上から3番目に生まれ、上に姉と兄がひとりずついました。
おっとりとマイペースな姉と 甘ったれで氣弱な兄の下に生まれた母は、「しっかり者で頼れる次女」というキャラクターを自然と身につけることになりました。
そういうポジションに身を置くことで、両親の愛を得ようとしたのでしょう。
その後、下に次々と弟妹が生まれ、幼い子どもの世話に追われる母親と あまり頼りにならない姉兄の間で、母はますます「しっかり者」としての立場を強めていくことになったようです。。。たくさんの無理とガマンを押して。
やがて日本が太平洋戦争に突入、母親と幼い子どもたち、それに自分より年長の姉までが田舎に疎開する中、頼りになる子だからという理由で 父・兄と三人 東京の下町に残って 空襲で家を焼かれるまで留守を守った体験は、晩年まで母の心の中で大きなトラウマとなっていたらしい。
私が幼い頃から、母は「頼れる人」でした。
わが子を全力で守り、同時に過干渉やコントロールなどを自覚せぬまま行い、私にとって安全地帯のようでありながら その陣地の中ではイライラしていることも多くて、最強の味方であり 悩みの種でもあった母。
実のところ 母だって好きでそういう立場になったわけではなく、ほんとうの自分の望みが見えないまま、「頼られてナンボ」のキャラをあまりにも固めすぎて、頑張りの鎧を紐解くことができなくなってしまったのではないか。
ほんとうは、自分だって 甘えたりいたわられたりするくつろぎ感・安心感を味わってみたかったのではないか。
あれこれ思い巡らすうちに、漠然とではあったけど そんなものが見えてきて。
ただ、仮にそれが正しかったとしても、どうすれば母の心のもつれを解けるのかはわからないままだったのですが。
母が亡くなった後になって ふと思ったのです。
母は、いつまでも古い怒りに引っかかって先へ進めない私のために ほとんど幼い子どものように世話をされるところまで自分を弱めて、怒りを越えたいたわりの心を引き出してくれたのではないか。
そして同時に、甘えいたわられる側になりたいという自分の願いをも果たしたのではないか。
とまあ そんなふうに見ることもできるなぁって(^^)
実家に行ってから足掛け7日。
スープやお粥など食べやすいものを作ったり、飲んだり食べたりのお手伝いをしたり、マッサージから身のまわりの世話まで、なんだか親子が逆になったみたいだなぁと思いながらの母の介護は 少しも苦ではなく、むしろ母がもとのからだに戻れるようベストを尽くすぞ、という張り合いや喜びがありました。
それというのも、母がそこまで力をなくした状態で すべてをゆだねてくれたからこそ。
母の体力や能力の低下と引き換えに、私は怒りを超えて母をいたわるというありがたい立場を授かり、一方で母も 自分が頑張らねばという思いを手放して、存分に私たちに甘えてくれたのではないかという氣がするのです。
白状すると、そんな中でも 何をしても氣に入ってくれず 不機嫌になられたときなど、やはりムッとしてしまったこともありました。
それでも、ああ、この状況で母に怒りをぶつけるなんて 決してしてはいけないことだ!と猛省させられたのは、やはりあまりにも弱々しい母の姿を目の当たりにしていたからこそ。
ある意味、母がそこまで協力してくれて、やっとかろうじて 最後の最後でぎりぎり課題をクリアできた、ということなのかもしれません。
もし、怒りを手放せないまま あんなふうに突然別れのときを迎えていたら、その後いつまでも辛い記憶を抱えて過ごさねばならなかったことでしょう。
長期戦を覚悟していた母の看病、まさか7日で終わってしまうなんて夢にも思わなかったけど。。。
それ以上長ければ私たちの負担になり、短かければ悔いや思い残しを生む、と、母は ちょうどいい期間を計ってプレゼントしてくれたのかもしれません。
三次元視点で見れば 母親の死という悲しい体験。
でも、少し離れたところから視点を変えて眺めれば、魂の仲間どうしで協力し合い、それぞれの課題を助け合ってクリアして、「母」としての魂は 無事この世界を卒業と相成った、と見るのもありだなぁ、という氣がするのです。
そういえば、以前のブログで、タレント剛力彩芽ちゃんの 親に対する「ありがとう、大好き」という言葉を引いて、自分にはとてもそうは言えないって書いたことがあったのだけど。
今ならありったけの思いを込めて 心から言うことができます。
“大好きなお母さん、私のお母さんでいてくれてほんとうにありがとう” と。
母を「母」として思い出すと、どうしても「もう会えないんだ」という悲しみに行き着いてしまう。
でも、ちょっと焦点をずらすと、また違うものが見えてくることもあるんですね。
3月29日から4月8日にかけて奈良に行ったとき、私はまだ母への怒りを克服できず葛藤していたものでした。
そして、その次 4月22日に行ったときには、母はいろんな力をどんどん失って 幼い子どものような姿に還ってしまいました。
歩くことはもちろん、自力で立つことも身の回りのことも出来なくなって。
そんな姿を見たとき、やっと。。。というのかな、私の中で 怒りを越えて 母へのいたわりの思いが大きくなったのでした。
母はなんであんなに頑強に医者にかかることを拒むのだろう。。。
年明けからずっと心にかかっていた疑問でした。
この歳で 苦しい治療を受けたくない、というのはわからないでもないけど、喘息やむくみなどの症状に 何も手を打たないことでの苦痛の方がどんどん大きくなっている今、このままにしておいていいはずがないことぐらいはわかっているだろうに、と。
そして、あれこれさんざん考えたあげく、ふと浮かんだのが、
「母は 甘えたりいたわられたりする立場になりたかったんじゃないかな」
母は 7人兄弟の上から3番目に生まれ、上に姉と兄がひとりずついました。
おっとりとマイペースな姉と 甘ったれで氣弱な兄の下に生まれた母は、「しっかり者で頼れる次女」というキャラクターを自然と身につけることになりました。
そういうポジションに身を置くことで、両親の愛を得ようとしたのでしょう。
その後、下に次々と弟妹が生まれ、幼い子どもの世話に追われる母親と あまり頼りにならない姉兄の間で、母はますます「しっかり者」としての立場を強めていくことになったようです。。。たくさんの無理とガマンを押して。
やがて日本が太平洋戦争に突入、母親と幼い子どもたち、それに自分より年長の姉までが田舎に疎開する中、頼りになる子だからという理由で 父・兄と三人 東京の下町に残って 空襲で家を焼かれるまで留守を守った体験は、晩年まで母の心の中で大きなトラウマとなっていたらしい。
私が幼い頃から、母は「頼れる人」でした。
わが子を全力で守り、同時に過干渉やコントロールなどを自覚せぬまま行い、私にとって安全地帯のようでありながら その陣地の中ではイライラしていることも多くて、最強の味方であり 悩みの種でもあった母。
実のところ 母だって好きでそういう立場になったわけではなく、ほんとうの自分の望みが見えないまま、「頼られてナンボ」のキャラをあまりにも固めすぎて、頑張りの鎧を紐解くことができなくなってしまったのではないか。
ほんとうは、自分だって 甘えたりいたわられたりするくつろぎ感・安心感を味わってみたかったのではないか。
あれこれ思い巡らすうちに、漠然とではあったけど そんなものが見えてきて。
ただ、仮にそれが正しかったとしても、どうすれば母の心のもつれを解けるのかはわからないままだったのですが。
母が亡くなった後になって ふと思ったのです。
母は、いつまでも古い怒りに引っかかって先へ進めない私のために ほとんど幼い子どものように世話をされるところまで自分を弱めて、怒りを越えたいたわりの心を引き出してくれたのではないか。
そして同時に、甘えいたわられる側になりたいという自分の願いをも果たしたのではないか。
とまあ そんなふうに見ることもできるなぁって(^^)
実家に行ってから足掛け7日。
スープやお粥など食べやすいものを作ったり、飲んだり食べたりのお手伝いをしたり、マッサージから身のまわりの世話まで、なんだか親子が逆になったみたいだなぁと思いながらの母の介護は 少しも苦ではなく、むしろ母がもとのからだに戻れるようベストを尽くすぞ、という張り合いや喜びがありました。
それというのも、母がそこまで力をなくした状態で すべてをゆだねてくれたからこそ。
母の体力や能力の低下と引き換えに、私は怒りを超えて母をいたわるというありがたい立場を授かり、一方で母も 自分が頑張らねばという思いを手放して、存分に私たちに甘えてくれたのではないかという氣がするのです。
白状すると、そんな中でも 何をしても氣に入ってくれず 不機嫌になられたときなど、やはりムッとしてしまったこともありました。
それでも、ああ、この状況で母に怒りをぶつけるなんて 決してしてはいけないことだ!と猛省させられたのは、やはりあまりにも弱々しい母の姿を目の当たりにしていたからこそ。
ある意味、母がそこまで協力してくれて、やっとかろうじて 最後の最後でぎりぎり課題をクリアできた、ということなのかもしれません。
もし、怒りを手放せないまま あんなふうに突然別れのときを迎えていたら、その後いつまでも辛い記憶を抱えて過ごさねばならなかったことでしょう。
長期戦を覚悟していた母の看病、まさか7日で終わってしまうなんて夢にも思わなかったけど。。。
それ以上長ければ私たちの負担になり、短かければ悔いや思い残しを生む、と、母は ちょうどいい期間を計ってプレゼントしてくれたのかもしれません。
三次元視点で見れば 母親の死という悲しい体験。
でも、少し離れたところから視点を変えて眺めれば、魂の仲間どうしで協力し合い、それぞれの課題を助け合ってクリアして、「母」としての魂は 無事この世界を卒業と相成った、と見るのもありだなぁ、という氣がするのです。
そういえば、以前のブログで、タレント剛力彩芽ちゃんの 親に対する「ありがとう、大好き」という言葉を引いて、自分にはとてもそうは言えないって書いたことがあったのだけど。
今ならありったけの思いを込めて 心から言うことができます。
“大好きなお母さん、私のお母さんでいてくれてほんとうにありがとう” と。