毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

理不尽という名の祝福

2012年06月12日 12時30分57秒 | ふと思うこと
おととしの秋ぐらいからずっと 「理不尽」という言葉がテーマに上っていました。

理不尽と感じることが起こるたび 自分はどうしてこうも激しく反応してしまうのだろう。。。と氣がかりになったのがきっかけなのですが。

つい今しがた やっと腑に落ちました。

“理不尽に”道を外れる体験そのものに意味があったんだなぁ、って。





【理不尽】

物事の筋道が通らないこと。道理にあわないこと。また、そのさま。無理無体。 (「大辞林」より)
                     




生まれたての赤ちゃんは、みんな純粋無垢です。

でも、成長するに従って あれ?あれ?ということが多くなって。

ごく自然にまわりから取り込んだ情報が、往々にしてその人を縛り、生き辛いほうへと追いやる。

なんの悪意も持ってなかったのに、なんにも悪いことしてないのに、なんで生まれたときのまま 無邪氣に幸せに歩き続けられないんだろう。

そう考えれば まさに理不尽。



でもね。

最初からずっと無垢で無邪氣で幸せなままだったら、それが当たり前になってしまって、その素晴らしさは味わえない。

それは たまたま天から与えられたプレゼント、いつ取り上げられてしまわないとも限らない 心もとないもの。

でも、いったん道を外れて、生き辛さにジタバタあがいて、試行錯誤の末 再び「これが自分の道」と納得いくところに戻ってきたとき、それは自分が掴み取ったもの、自分の力で獲得したものなんですね。

ちょっとやそっとのことでは揺らがない、自信に満ちた私の道、私の幸せ。

そうやって、わざわざ外れて また戻っていくプロセスを味わい楽しむために、私たちは生まれるチャンスをもらったのかもしれない。




前にも書いたけれど、両親、とりわけ母から受け取った情報には、「これ持ったままだと生き辛いな~」と感じるものもけっこうあって、そのたびに 頼みもしないのに そんな厄介なものを渡されたこと、その理不尽さを恨んだものでした。

その後、少し離れたところから「これはどういう必要があってやってきたもの(こと)なんだろう」と冷静に見つめる視点というものを教えられ、その意味に氣づいて ひとつひとつクリアしていくようになって。

そして今、そのすべてが「幸せな自分を知る・創る・獲得する」という大きなテーマに結びついていることを 改めて知らされたのです。

そう思えるなら、外れることもまた 幸せの道筋の内なのだと。

以前からたびたび氣づかされたことだけど、より深まって還ってきた氣がします。




母は 母であると同時に、やはり魂の旅の仲間・学び仲間だったんだなぁ。

これまで恨んできたこと全部ひっくるめて、もう一度ここで 「いっしょに歩んでくれてありがとう」と言わせてもらいましょう。

直接言うことはできないけれど、きっと伝わってると信じられるから。




おととい大阪で 悲しく恐ろしい事件が起こりました。

「誰を襲ってもよかった」と言うような人は、理不尽と感じる自らの境遇を 誰かに八つ当たり的にぶつけることで 帳尻を合わせたい衝動にかられるのかもしれない。

そういう人の心の闇も、またやはり理不尽に大切な人を奪われたご家族やご友人のお心の内も、とうてい計り知ることはできそうにありません。

特に、被害者の立場で苦しみぬいておられる方の思いを考えたら、人生経験も浅く未熟な私がこういうことを書くのは ひどく思い上がった軽率なこと。

。。。と重々承知の上で、それでも敢えて言わせていただけるなら、身に起こる理不尽を嘆き恨む代わりに、それを読み解き 本来の自分を思い出すことで 180度違う道を選ぶこともできる、と ひとりでも多くの人に知ってもらえたら、こういう悲しい事件も減るのではないか。。。という氣がしてならないのです。




自分自身も含め、誰もがみんな光の子であり 祝福された存在であることに心底氣づく日が、一日も早く訪れますように。。。