「見えない世界」なんていきなり言われたら、怪しげに聞こえて引いてしまう人もいるかもしれないけど。
でも、ほんとうのところ、誰でも持ってると思うんですよね、そういうものを感じる力。
ただ 人によっては 持ってることを忘れてるだけで。
口で言ってることとどうもちぐはぐな印象を受ける人がいるとか。
予定と違う道にふと氣を引かれて、あとからそっちのほうが正しい道だったことに氣づいたとか。
なにかに夢中になってて ハッと思い出して飛んでったら、ちょうどお風呂の水が溢れる寸前だったとか。
そんな体験の一度や二度、誰にでもあるんじゃないかな♪
私が奈良から和歌山に移ったのは 2001年の7月。
ちょうどその少しあとの9月から、NHK朝の連ドラで 地元が舞台の「ほんまもん」が始まりました。
私はテレビを持っていなかったし、めったに見ることもなかったのですが、たまたまヒロインのおじいさん役の佐藤慶さんのセリフを聞く機会があって、「さすが名優さんだなぁ、よくこれだけ見事にこの土地の難しい訛りを話しこなせるものだなぁ」と感服したものです。
和歌山の言葉って 近畿の中でもかなり個性が強いので、移って間もない私は まねて話すどころか、聞き取るのもままならないことさえあったのですから。
しかし、土地の言葉になじむにしたがって、イントネーションからリズムまで 私が聞く限りではそっくりなのに、どうもなにかが違う、という感じが起こってきました。
上品過ぎる。。。っていうのか。。。
いえ、土地の人が・・・ってことじゃないんです。
陽氣であけすけな話し方をする人もいれば、穏やかで品のいい人もたくさんおられる。
それでもなにかが大きく違うんですね。
どんなに見事に訛りをあやつっても どうしても発するなにかが違う。
なんだろう、なんだろうってしばらく考えていて氣づきました。
言ってみれば、その人の意図と関係なくにじみ出る 個人の履歴みたいなもの。
身なりや言葉がどれだけそっくりでも、その底で佐藤慶さんが発しておられるのは「都会のインテリ」とでもいうような雰囲氣なんですね。
一方、この土地にずっと住んでいる人たちの発する氣には、個人個人の物腰や言葉遣いと関係なく、「この土地の土の香り」とでもいうようなものが染み込んでいる。
その人その人が重ねてきた人生そのものから漂ってくるようななにか。
そしてこればっかりは、どんな名優でも 演技力だけで表現し切れるものではないのだろうな、と。
あれ以来、どんな人でも、見た目や態度や言葉遣いを越えて 意図せぬまま発しているものがあることを知りました。
その後、ネットで知り合った人とあとからリアルでお会いしたり、サイト上の文章のやりとりだけのお付き合い、声までは知ってるけど直接会ったことはない人とのご縁など、いろいろなケースを通じて、取り繕いようのある外見以上に そうした氣配みたいなもののほうが その人の本質を表わしているらしいことがわかってきました。
なによりも、そういうものを感じ取っている自分がいることに驚きました。
また、以前よくしていた車の旅で 道を間違えたとき、「あれ、この道違うかも」「地図と違うけどこっちの道に行ったほうがいいかも」と直前にかすかにピンとくる体験をたびたびしていたことにも氣づかされました。
最初のうちはあまりにもかすかで一瞬のことなので 見逃してばかりいましたが、何度も繰り返すうちに だんだんそのときの感じがわかってきて、自分のカンを信頼できるようになりました。
五感に触れてくる情報と違って、「見えない世界」を感じるのって、ガッチリつかめる感じではなく かすかであやふやなので、最初のうちはどうも見逃してしまいやすいんですよね。
ん?って思っても、すぐに払いのけたりスルーしちゃったり。
でもこれって 筋トレなんかと同じで、繰り返し使うことで 鍛えて強くすることができるような氣がします。
いや、強くするっていうより 聡くなるっていうほうが近いかな。
そうやって これまであまり氣づいてなかった自分の中の見えない世界と親しむにつれて、自分専用のいちばん確かな羅針盤がそこにあることを思い出し、ほかのどんな答えよりも信頼できるようになっていくんだと思います。
みんなが自分の外じゃなく 自分の中にもっとも信頼のおける答えを見つけられるようになるにつれて、世の中が大きく変っていくんじゃないかなぁ♪
でも、ほんとうのところ、誰でも持ってると思うんですよね、そういうものを感じる力。
ただ 人によっては 持ってることを忘れてるだけで。
口で言ってることとどうもちぐはぐな印象を受ける人がいるとか。
予定と違う道にふと氣を引かれて、あとからそっちのほうが正しい道だったことに氣づいたとか。
なにかに夢中になってて ハッと思い出して飛んでったら、ちょうどお風呂の水が溢れる寸前だったとか。
そんな体験の一度や二度、誰にでもあるんじゃないかな♪
私が奈良から和歌山に移ったのは 2001年の7月。
ちょうどその少しあとの9月から、NHK朝の連ドラで 地元が舞台の「ほんまもん」が始まりました。
私はテレビを持っていなかったし、めったに見ることもなかったのですが、たまたまヒロインのおじいさん役の佐藤慶さんのセリフを聞く機会があって、「さすが名優さんだなぁ、よくこれだけ見事にこの土地の難しい訛りを話しこなせるものだなぁ」と感服したものです。
和歌山の言葉って 近畿の中でもかなり個性が強いので、移って間もない私は まねて話すどころか、聞き取るのもままならないことさえあったのですから。
しかし、土地の言葉になじむにしたがって、イントネーションからリズムまで 私が聞く限りではそっくりなのに、どうもなにかが違う、という感じが起こってきました。
上品過ぎる。。。っていうのか。。。
いえ、土地の人が・・・ってことじゃないんです。
陽氣であけすけな話し方をする人もいれば、穏やかで品のいい人もたくさんおられる。
それでもなにかが大きく違うんですね。
どんなに見事に訛りをあやつっても どうしても発するなにかが違う。
なんだろう、なんだろうってしばらく考えていて氣づきました。
言ってみれば、その人の意図と関係なくにじみ出る 個人の履歴みたいなもの。
身なりや言葉がどれだけそっくりでも、その底で佐藤慶さんが発しておられるのは「都会のインテリ」とでもいうような雰囲氣なんですね。
一方、この土地にずっと住んでいる人たちの発する氣には、個人個人の物腰や言葉遣いと関係なく、「この土地の土の香り」とでもいうようなものが染み込んでいる。
その人その人が重ねてきた人生そのものから漂ってくるようななにか。
そしてこればっかりは、どんな名優でも 演技力だけで表現し切れるものではないのだろうな、と。
あれ以来、どんな人でも、見た目や態度や言葉遣いを越えて 意図せぬまま発しているものがあることを知りました。
その後、ネットで知り合った人とあとからリアルでお会いしたり、サイト上の文章のやりとりだけのお付き合い、声までは知ってるけど直接会ったことはない人とのご縁など、いろいろなケースを通じて、取り繕いようのある外見以上に そうした氣配みたいなもののほうが その人の本質を表わしているらしいことがわかってきました。
なによりも、そういうものを感じ取っている自分がいることに驚きました。
また、以前よくしていた車の旅で 道を間違えたとき、「あれ、この道違うかも」「地図と違うけどこっちの道に行ったほうがいいかも」と直前にかすかにピンとくる体験をたびたびしていたことにも氣づかされました。
最初のうちはあまりにもかすかで一瞬のことなので 見逃してばかりいましたが、何度も繰り返すうちに だんだんそのときの感じがわかってきて、自分のカンを信頼できるようになりました。
五感に触れてくる情報と違って、「見えない世界」を感じるのって、ガッチリつかめる感じではなく かすかであやふやなので、最初のうちはどうも見逃してしまいやすいんですよね。
ん?って思っても、すぐに払いのけたりスルーしちゃったり。
でもこれって 筋トレなんかと同じで、繰り返し使うことで 鍛えて強くすることができるような氣がします。
いや、強くするっていうより 聡くなるっていうほうが近いかな。
そうやって これまであまり氣づいてなかった自分の中の見えない世界と親しむにつれて、自分専用のいちばん確かな羅針盤がそこにあることを思い出し、ほかのどんな答えよりも信頼できるようになっていくんだと思います。
みんなが自分の外じゃなく 自分の中にもっとも信頼のおける答えを見つけられるようになるにつれて、世の中が大きく変っていくんじゃないかなぁ♪