毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

彼岸と此岸

2012年06月08日 23時46分50秒 | ふと思うこと
きのうの続きみたいなもの。。。かな?(^^ゞ



きのうは、三次元視点以外にも見えるものがある、ってことを書きたかったんだけど、どうもね。。。思い出を探りながら書いてると どうしても過去に引っ張られるので、三次元の記憶のほうが鮮やかになってしまって 母への執着が前面に出てしまったような。。。

たしかに そういう目で見れば、いまだに喪失感を引きずってるところもあります。

そんなときは、「二度と会えない」の「二度と」の重みに打ちひしがれそうになる。



でも、その視点から意識を引っぺがして 新たな目で見直すと、あれ?っていう氣になることもあるんだよね。



亡くなった人の記憶は その人が大切であればあるほど いい場面だけを残しておきたい。。。無意識にでも そんな心理が働くのかもしれません。

今でも一日に一回ぐらいは 母を思い出して泣きたくなるようなことがあるけど、そんなとき浮かんでいるのは もう一度戻りたくなるようななつかしい思い出ばかり。

でもね、あるときふとしたはずみに なぜかそんな美しい記憶を通り越して ひどくリアルな記憶を取り出してしまったんです。

ちょうど、あの もてあました氣持ちをブログに書きなぐっていた頃のような。

母は、全身を もつれたりねじれたりしたややこしい感情で包まれている。

私も似たり寄ったりのありさまで、ちょっとした母の言動に いちいち反応せずにいられない。

そして思ったのです。

もし望みどおりもう一度あの頃に戻れたとして、楽しいこともいっぱいあるだろう、また、頭から湯氣をたてるようなこともいっぱいあるだろう、なんのことはない、良くも悪くもあの頃と同じ状態に戻るだけなんだ、って。



で、改めて じゃあ今は?って思い直してみると。。。

まず、母の姿かたちは消えました。

さらに 私のイメージの中で、母を包んでいた もつれたりねじれたり ややこしかったものも、するりとセミが殻を脱ぐように脱ぎ捨てられていたのです。

ああそうか。

母は自由になったんだ。

この世の人でなくなると同時に、自分を悩ませていたややこしい感情からも解放されたんだ。

五感で触れられる形はなくなったけど、ずっと澄み切って 愛そのものになって、時間や空間の縛りもなくなって、いつも私たち縁ある者を取り巻いてくれているんだ。


かの有名な「千の風になって」の歌詞が、ただの言葉から鮮やかな現実へと転じた瞬間でした。



以前なにかの本で「亡くなった人は 望めばいつでもあなた方のそばにいるし、あなた方の声や思いも届いている」というようなことを読んで、以来ずっとそういうのってありだな、と思っているんですが。

母が亡くなってしばらく、まさか幽霊みたいに姿が見えるとまでは思わなかったけど、母を恋しく思うたびに 生前そのままの氣配を身近に感じることを期待していた時期がありました。

でも、落ち着いてよく考えてみれば、姿が見えないだけで当時そのままの母が自在に現れるとしたら、それって神出鬼没のストーカーみたいなものじゃないですか(笑)

母はたしかに 今でもいる。

ただ、生前とまったく同じというわけではなく。

具体的な形だけじゃなく、生きていたとき さまざまな感情や思い込みから作り上げた 想念の形もするりと外して、まさに風のように、空氣のように そこら中に立ち込めているんだ。

今ではそんな氣がしています(^^)



植物の氣配って 空っぽなんですね。

人は、「我」とか「エゴ」とかっていうのかな、自己主張するエネルギーを持っているから、氣配もやたら働きかけてきてにぎやかだけど、植物にはそういうのはないから、氣配を感じ取ろうとしても すかっとしてて手応えがない。

山の中にひとりで立っていたりすると、あたり一面いのちの氣配に満ち満ちているのに 空氣はし~んと静かで軽やか。

旅立った人たちも そんな感じなんじゃないかな。

相手をどうしようこうしようっていうややこしい意図はすっかり手放して、ただ愛情いっぱいに 静かに取り巻き 見守ってくれている、とね。



もうひとつ。

母は 旅立つときに、母の生前の感情のもつれとがっちり対になっていた 私のややこしいなんやかんやまで外していってくれたんじゃないかっていう氣もするのです。

生きていたときは しょっちゅうぶつかりあっては悩み苦しんだものだけれど、今はある意味 ずっとわだかまりなく通じ合えている感触がある。

それをうれしく思うと同時に、互いに生きているときにこうなれたらもっとよかったなぁとも思うんですね。

この思いを持ったまま過去に戻ることはできないけれど、これから先、父をはじめ 今生きている人たちと触れ合うときに 学びとして役立てることはできる。

母からの 最後にして最大の贈り物、あるいは 魂の仲間どうしで最後に果たされた約束みたいなものだったのかもしれません。




“形を変えた母”というイメージが なんとなく定着して以来、見えない世界が身近になったというか、彼岸と此岸の境が微妙に曖昧になったというか。

世界が広まったような 深まったような 不思議と豊かな心持ちです。