毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

動き出す

2014年12月17日 23時05分56秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


これも繰り返し書いてきたことのように思うのだけれど。

もっと幸せになりたい、自分を変えたいと願い始めてからというもの、力となってくれるさまざまな情報と出会うことができました。

そこで言われ続けた、自分の意識を変えましょう、自分を愛しなさい、責めるのをやめなさい、明るく前向きな氣持ちで、自信を持って。。。。などの助言の数々。

いったん出会えば 受け取るのは造作もないこと、どの言葉にも心からうなずけ、これこそ真に自分を変えるカギだ、と直感したのだから。




しかし、その先に待ち受けていた 最大の難関は、

そうなりたいのになれない、変われない、自分の心が思い通りにならない

っていうこと (T_T)


意識を変えましょうって言われて、はい変えます、で変われるものなら苦労はないんだなぁ・・・ってね




そのたびに、私の心はおかしいんだろうか、いや、やり方が間違っているのかも、いやいや、変化するにも時間がかかるから、目にはまだ見えなくとも 徐々に効果が上がっているのかも・・・・などと 悩んだり迷ったり。

粘り強かったのか、あきらめが悪かったのか(笑)、そんな状態が かれこれ10年ぐらい続きました。

無駄な時間だったとは思わない。

そうやって投げ出さずに探し続けたからこそ、ついに 「これだ」 っていう情報を引き寄せられたんだよ、って 内なる声が言ってるもの (*^▽^*)v

そう、「感情ではなく からだの感覚のほうにフォーカスしなさい」っていうアドバイスをね♪





白浜での3ヶ月、事あるごとに湧き上がる否定的感情の、その手前のからだの感覚を ひたすら感じ続けるうちにわかってきたのは、まず、どれもこれも目新しいものではなく、小さい頃から繰り返し味わってきた怒りや痛みである、つまり それだけ根深く 自由な選択を阻んできた、“大物” のブロックだ、ということ。

その分 表に出てくる感情も強烈で、その場では対処し切れなかったり、数日引きずったりしたものもあったし、何よりも仕事の最中のこととて 感覚ばかり追っているわけにもいかず、ほんとうに感じ尽くせたのかどうかわからないことも多かったけれど、どうやら大半は手放せていたらしいことは、今の自分の様子からわかります(^^)

そして、これだけ大物がごろごろ出てくるっていうことは、長いこと取り組んできた 負の感情の解放も、大詰めにさしかかっているのかな? なんて ちょっとうれしくなったりして。

これも そのときはわからなかったけれど、今思えば ただの希望的観測ではなかったようです♪




もうひとつ、これはかなりショックだったのだけど、今回、人から向けられてうれしくない感情を、自分も人にしっかり向けている様子を ありありと見せられたこと。

誰かが私に対して 腹を立てたり苛立ったりしている、それとまったく同じように、私も きっかけさえあれば、他者に対して腹を立てたり苛立ったりするのだ、と。

きのういやだなぁと思った相手は、きょうの自分の姿。

仕事期間も終盤にさしかかる頃には、目に映るものすべてが鏡という意識にもすっかり慣れて、その日のメンバーの顔ぶれから 「きょうはどんな体験を通して どんな自分を見ることになるのかなぁ」 などと想像したりするまでになっていましたが、それはいつも、人から何かをされる、という立場に立ってのこと、自分が人に何かする、という側から考えたことは、まったくといっていいほどありませんでした。

いや、頭ではわかっていたのだけれど。。。目に映るものすべてが自分である以上、負の感情を向けてくる相手だって、当然私の一部のはず。

でも、それを事実として認めるのは、やはり辛いことでした。

相手に反感を感じれば感じるほど、なおさら。

被害者の自分は認められても、加害者の自分を認めるのは 難しい。

でも、滞在終盤にはいつも、さあきょうは何が見える?何が見える?と待ち受けるような意識でいたせいか、ごまかしようもなく あからさまに見えてしまったのです。

こうなると、もはや被害者として相手を恨むなんていうこと、出来なくなってしまいます。

相手にネガな感情を向けたとたん、自分も同じだよね、とわかってしまうのですから。

怒りが湧かなくなったわけではないけれど、次の瞬間 「他人事じゃない、これは私自身の姿」 とバレて、すごすご引っ込むことになります

しんどい一方で、大きな収穫。

たとえ人のせいにしたくても 出来なくなったということは、すべてを自分の責任として引き受け、人生を 自分の力で どこまでも変えていく人間になることにつながってゆくもの。




あの頃すでに、内側からなにかが動き出していたようです。






















習い性

2014年12月17日 14時21分11秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


えへへ、クリスマステンプレート変えちゃった、素敵な柄がいくつもあって 楽しい~





最近 どうも過去記事を読み返す氣になれなくて、確かなところは覚えていませんが、「感情そのものではなく、感情に発展する前のからだの感覚を感じ尽くすことで、否定的な思い癖を手放す」 という話については、“検証中” の立場で 繰り返し何度も書いてきたように思います。

初めてこの話に出会ったとき、ピンとくるものがあって、重要な情報だと感じたのですが、それをすることで何が起きるかについては 自分で試さにゃ~わからん、ということで、以来 心が波立つたびに 「無心に感じる・味わう」 をひたすら念頭に置いて、まあ出来たり出来なかったりではありましたが (^^ゞ、とにかく実行し続けてきました。

で、今回の白浜滞在中ほど、「この情報を知っていてよかった~」 と思ったことはなかったなぁ。。。






白浜の仕事は、前々回のブログにも書いたように 楽しいことばかりではなく、そして だからこそ 貴重な機会を得ることができました。

忙しいときなど、ぎりぎりの人数と時間でバタバタ動いていれば、感情的なトラブルも起こります。

そんな他者との摩擦に遭遇するたびに 湧き起こる負の感情、そしてその大元にあるからだの感覚。

これまでひたすら避けようとしていた そんな苦痛な感覚をしっかり味わうことこそ、今の自分に何よりも必要だったのです。

手放したと思っては また引き寄せてしまう、長年の負の思い癖と、今度こそきちんとお別れするために。

二度目の白浜は、その課題をやり遂げるためにあったのかもしれない、と思ってみたりもします。




うれしくないことを言われてムッとする、カチンとくる、その 「ムッ」 や 「カチン」 こそ、そこに 私がずっと前から引きずったまま手放せずにいた 引っかかりやわだかまりが残っていることを教えてくれる合図。

そこでついつい、きっかけとなった相手に向けて 怒りや憎しみなどの感情を発してしまいそうになるけれど、それをしている限り、いつまでも同じことの繰り返し、なのですね。

他者は自分の心を映し出す鏡、世界を創るのは 他ならぬ自分。

不快な感情に耐えかねて それを忘れ、相手のせいにしてしまっては、いつまで経っても 自分のこととして吟味し 解決するチャンスを逃すばかり。

だからこそ、ネガな感情に発展する前の からだの感覚のほうに集中することが 重要になるわけです。




そもそも、感情は言葉の世界だけれど、さらに大元のからだの感覚が最初に刷り込まれたのは、まだ言葉のおぼつかない 幼い頃のこと。

未完成の脳の配線に 選択の余地なく組み込まれ、幼児の思考能力ではどうすることもできなかったからこそ、ずっと心の奥にしまわれて 持ち越しになっていたのですから。

このあたり、以前にも書いたように まさに映画 「インセプション」 の世界だよなぁ、って思うのだけれど☆

言葉化される前の 理屈にならない形で刻みつけられた負の記憶を、大人になってから 言葉でいくら感情に働きかけて解決しようとしても、そう簡単に解ける(溶ける)ものではないのですね。




・・・・とそこまでわかっていても、長年の癖は根深くて、嫌なことを言われれば、つい相手に否定的な氣持ちを持って悩んでしまい、そんな思いを抱え込むのが苦痛で、なんとかなだめよう、忘れようとがんばってしまうことが まだまだあったのですが、今回の白浜は、これまでになく そんな自分の癖を意識させられる毎日でした。

で、カチンとかムカッとかきて 悩みそうになると、すかさず 「ハイ、またそれやらないでね。感情は置いといて、今のそのからだの感覚にフォーカス~」 と すかさず内側から声がかかるようになったのです♪

さすがに長いこと試し続けていたから、習い性になったということなんでしょうね(*^^*)




家でひとりおとなしく過ごしていたら、とうてい体験できなかっただろう他人との軋轢を重ね、しかもそのほとんどを逃さず 感覚に集中して味わって味わって、とことん味わった結果がどうなったか?

それがわかり出したのは、こちらに戻ってからのことなのですが・・・・こんな自分でいられる日がやってこようとは・・・・出発前には 思いもよりませんでした




まあ、今も “検証中” ではあるけれど、身をもってこれほどの成果を感じられるからには、ご報告にも力が入ろうというものです