これも繰り返し書いてきたことのように思うのだけれど。
もっと幸せになりたい、自分を変えたいと願い始めてからというもの、力となってくれるさまざまな情報と出会うことができました。
そこで言われ続けた、自分の意識を変えましょう、自分を愛しなさい、責めるのをやめなさい、明るく前向きな氣持ちで、自信を持って。。。。などの助言の数々。
いったん出会えば 受け取るのは造作もないこと、どの言葉にも心からうなずけ、これこそ真に自分を変えるカギだ、と直感したのだから。
しかし、その先に待ち受けていた 最大の難関は、
そうなりたいのになれない、変われない、自分の心が思い通りにならない
っていうこと (T_T)
意識を変えましょうって言われて、はい変えます、で変われるものなら苦労はないんだなぁ・・・ってね
そのたびに、私の心はおかしいんだろうか、いや、やり方が間違っているのかも、いやいや、変化するにも時間がかかるから、目にはまだ見えなくとも 徐々に効果が上がっているのかも・・・・などと 悩んだり迷ったり。
粘り強かったのか、あきらめが悪かったのか(笑)、そんな状態が かれこれ10年ぐらい続きました。
無駄な時間だったとは思わない。
そうやって投げ出さずに探し続けたからこそ、ついに 「これだ」 っていう情報を引き寄せられたんだよ、って 内なる声が言ってるもの (*^▽^*)v
そう、「感情ではなく からだの感覚のほうにフォーカスしなさい」っていうアドバイスをね♪
白浜での3ヶ月、事あるごとに湧き上がる否定的感情の、その手前のからだの感覚を ひたすら感じ続けるうちにわかってきたのは、まず、どれもこれも目新しいものではなく、小さい頃から繰り返し味わってきた怒りや痛みである、つまり それだけ根深く 自由な選択を阻んできた、“大物” のブロックだ、ということ。
その分 表に出てくる感情も強烈で、その場では対処し切れなかったり、数日引きずったりしたものもあったし、何よりも仕事の最中のこととて 感覚ばかり追っているわけにもいかず、ほんとうに感じ尽くせたのかどうかわからないことも多かったけれど、どうやら大半は手放せていたらしいことは、今の自分の様子からわかります(^^)
そして、これだけ大物がごろごろ出てくるっていうことは、長いこと取り組んできた 負の感情の解放も、大詰めにさしかかっているのかな? なんて ちょっとうれしくなったりして。
これも そのときはわからなかったけれど、今思えば ただの希望的観測ではなかったようです♪
もうひとつ、これはかなりショックだったのだけど、今回、人から向けられてうれしくない感情を、自分も人にしっかり向けている様子を ありありと見せられたこと。
誰かが私に対して 腹を立てたり苛立ったりしている、それとまったく同じように、私も きっかけさえあれば、他者に対して腹を立てたり苛立ったりするのだ、と。
きのういやだなぁと思った相手は、きょうの自分の姿。
仕事期間も終盤にさしかかる頃には、目に映るものすべてが鏡という意識にもすっかり慣れて、その日のメンバーの顔ぶれから 「きょうはどんな体験を通して どんな自分を見ることになるのかなぁ」 などと想像したりするまでになっていましたが、それはいつも、人から何かをされる、という立場に立ってのこと、自分が人に何かする、という側から考えたことは、まったくといっていいほどありませんでした。
いや、頭ではわかっていたのだけれど。。。目に映るものすべてが自分である以上、負の感情を向けてくる相手だって、当然私の一部のはず。
でも、それを事実として認めるのは、やはり辛いことでした。
相手に反感を感じれば感じるほど、なおさら。
被害者の自分は認められても、加害者の自分を認めるのは 難しい。
でも、滞在終盤にはいつも、さあきょうは何が見える?何が見える?と待ち受けるような意識でいたせいか、ごまかしようもなく あからさまに見えてしまったのです。
こうなると、もはや被害者として相手を恨むなんていうこと、出来なくなってしまいます。
相手にネガな感情を向けたとたん、自分も同じだよね、とわかってしまうのですから。
怒りが湧かなくなったわけではないけれど、次の瞬間 「他人事じゃない、これは私自身の姿」 とバレて、すごすご引っ込むことになります
しんどい一方で、大きな収穫。
たとえ人のせいにしたくても 出来なくなったということは、すべてを自分の責任として引き受け、人生を 自分の力で どこまでも変えていく人間になることにつながってゆくもの。
あの頃すでに、内側からなにかが動き出していたようです。