毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

トキハナツ

2015年01月27日 23時56分06秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


モノノ怪となるまで 自分の心を押し殺し続けた 「のっぺらぼう」 のお蝶。

そこまでしても見合うだけの利益とは、いったい何か。




お蝶の母親もまた、武家の娘にふさわしく成長するよう 厳しい躾を受けて、本心を見失ったまま長年過ごしてきたのでしょう。

回想場面での母とお蝶は、どちらも面をつけた姿で描かれています。

母娘とも 素顔を忘れ、偽った心で生きてきたということなのでしょうね。

一度は失った武家の身分を取り戻すことが、何よりも大事。

そんな教えが あまりにもがっちり植えつけられていて、娘を犠牲にすることもいとわなくなった。。。。というか、それが娘にとっても何よりの幸せなのだ、と言い聞かせ、それ以上は考えないようにしてきたのでしょうね。




そんな母親が ほんものの愛情を注げる人ではないことを、お蝶も 心の奥ではわかっていたのだと思います。

それでも、「私は母上様が大好きでした」 と言い続けるお蝶。

その大好きな人のために 自分はこんなにまでして尽くしている、母の望みを全力で叶えている。

だから いつかきっと母も応えてくれるはず。

実際のところ、真に愛情深い母親だったなら それほどの苦しみを味わう必要もなかったわけで、いくら待ったところで そんなのは空しい希望でしかなく、また そこまでするに値する母親でもない・・・と 薄々氣づいていたのでしょうが、そんなつらい現実を認めるよりも、幻の期待を持ち続けるほうを選んだ。

それが、お蝶の利益。

決して叶う日はこないのだけれど、だからこそ 「いつかは叶うのだ」 と偽り続けることもできるわけで。

うれしくない現実を直視するよりも、ニセのはかない希望を選ぶ、そうまでしても 母に愛されたかった。

本心を殺し続け、モノノ怪になってでも。




親から愛されたい、たとえ無理とわかっていても諦めきれない、という願いの強さ。

そんな無理から生まれる苦痛や怒りを押し殺そうと、爆発させようと、願う氣持ちに変わりはないわけです。

叶わないとわかっていても諦められないから 怒りが湧くのであって、その矛先が 自分に向くか親に向くかの違いだけ。

いずれにせよ、そのままでは 怒りと執着の堂々巡りから抜け出すことはできません。




私は 親に怒りを向けたクチだけれど、だいたいお蝶さんにせよ 私にせよ、自分を殺したり 親を強引に変えようとしたりしている時点で、自身の親への思いも ほんとうの愛情ではなくなっているんですね。

自分が愛されることに 執着しているだけ。

ここにも、被害者が同時に加害者にもなるという あのからくりが働いています。

お蝶さんや私が子どもを持ったら、まず間違いなく ありのままのその子を認めて おおらかに愛することはできないでしょう。

だから、それはもう親の問題ではなく 自分の問題、なんとかしなければならないのは 親ではなく 自分自身なのです。




現実世界では、自分の歩んできた道のりを芝居のように見せられたり、生み出してしまった魔を斬ってもらったりするわけにはいきませんが、ブレイクスルーのチャンスは 誰にでもあります。

手立ては人によってさまざまでしょうが、私には まずはからだの感覚にフォーカスすることだったわけです。

肝心なのは、ほんとうの自分を知ること。

ほんとうの自分は、愛であり、喜びであり、豊かさ、安らぎ、自由であり。

からだをほぐすとか 自然の中に佇むとかして リラックスしているときに、ふとそんな自分に触れることもあるでしょう。

愛情豊かな人との交流によって 呼び覚まされることもあるでしょう。

大好きなことに没頭していて、氣づかぬうちにそうなっているかもしれない。

さえぎるものがあまりにも大きいなら、まずそれを溶かすことから始めればいい。

どんな方法であれ、愛そのものであるほんとうの自分を感じることができたら、問題はもう問題ではなくなるんですね。




タイトルの 「トキハナツ」 は、薬売りさんが 退魔の剣を抜くときの、剣とのやりとりから。

「モノノ怪の形・真・理によって、剣を解き放つ!」との薬売りさんの声に、剣が 「トキハナツ!」と応じる。

この剣を抜くには、モノノ怪の形と 真(まこと)と 理(ことわり)が必要なのです。

人に害をなすからといって やみくもに斬っていいというわけではないのですね。

モノノ怪が生まれるにも、それなりの理由や筋道があり、それを見定めて初めて 剣が使える。

モノノ怪は 人の情念に 人ならざるアヤカシがとり憑いて生まれるのだそうで、退魔の剣は それを殺すというよりも、人とアヤカシの結びつきを断ち切ることで 悪しき想いを解放し、モノノ怪を祓い清めるような働きをするんじゃないかと思っています。




斬るべきものの形や真や理を得ることで 退魔の剣が解き放たれ 魔が浄化されるように、ほんとうの自分を知ることで 偽りの自分が消えて 心の闇から解放される。

現実とやたら重なって見えるところの多い 「モノノ怪」、奥深い作品のような氣がします。






















アニメ 「モノノ怪」 より 「のっぺらぼう」

2015年01月27日 15時52分41秒 | 大好きな本・映画・ほか


アニメ 「モノノ怪」 から 「のっぺらぼう」。

冒頭、夫・姑を含む家族4人を殺したかどで 死罪を言い渡される 若嫁のお蝶。

次のシーンは獄中、白装束に身を包むお蝶と なぜか同じ牢の中にいる薬売り。

一家4人の殺害が お蝶ひとりの仕業ではなく モノノ怪が絡んでのこととにらむ薬売りの前に、突然狐面の怪しい男が現れて。。。。



これは アニメ 「のっぺらぼう」 そのもののご紹介や解説ではないのですが、話の筋や内容に どうしても触れることになり、ネタバレもしてますので、未見のかたはご注意くださいね。















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この話は、「モノノ怪」 全5話の中で もっとも解釈が分かれるようです。

狐面の男の正体から、殺害事件は実際に起こったのか そうでないのか、そもそもこれは 現実世界をベースにした話か お蝶の内的世界の表現か、いや お蝶はすでに故人で 成仏できずにいるところに薬売りが介入したのか、などなど。

まあ そのあたりは置くとして、共通の点は、一見怪しげな狐面の男がモノノ怪なのではないこと、そして モノノ怪が生まれる背景には お蝶と母親の関係が影を落としていること。




お蝶の母親は、武家の奥方でありながら 夫に早くに死なれて 家禄を召し上げられ、それからは 御家再興のため 娘を武家に嫁がせることに執念を燃やし、全力で厳しく躾けていたんですね。

この人も、当時の武家の家族のあり方とか 女性のあり方とか いろいろな枷をはめられてきたのでしょう。

どう見ても 娘を大事にしてくれそうにない一家の下に嫁がせておきながら、婚礼の席で 夫家族の面々を前に 「これで胸を張って 先祖の墓参りに行くことができます」 などと言っていたぐらいですもの。

そしてお蝶は、そんな母の夢を叶えようと 自分を押し殺し、厳しい躾けにも悲惨な境遇にも ひたすら耐えてきた。

母親に腹を立てるどころか、母親の思いがほんとうの愛情でないこと、自分が母の道具となっていることを 認めることすらできません。




結末をいえば、モノノ怪の正体は、お蝶自身なんですね。

本人はまったく氣づいていませんでしたが。。。。

薬売りが解き明かした 「のっぺらぼう」 の真 (まこと:事のありさま) と理 (ことわり:心のありさま) は、母親のいびつな愛情を受け止めようとして歪んだお蝶の心に モノノ怪がとり憑いた、そして モノノ怪が 狐面の男をあやつり、お蝶を婚家に縛り付けたのだ、というもの。

狐面の男は、婚家での不当な扱いに 心の毒が限界まで上がってきたお蝶に、幻の一家惨殺を繰り返し味わわせ 毒抜きをさせては、すべてをリセットして 元の境遇に戻すという 無限ループにつなぎ止める役割を果たしていたのでした。





「いったい何人殺したんです?」 「お蝶、誰を 殺した?」

繰り返し投げかけられる 薬売りの問い、その答えが だんだん見えてきます。

彼女が殺し続けてきたのは、ほんとうの自分の氣持ちでした。

その無理から生じた歪みがモノノ怪となり、陰惨な虚構の無限ループに 彼女自身をずっと閉じ込めていたのです。




夫をはじめ 家族の皆から馬鹿にされ、罵倒され、冷たい扱いしか受けない婚家を、それでも逃げ出そうとしなかったお蝶。

冒頭の牢獄は、窓の色形や扉などの造作・配置が 婚家の台所とそっくりに描かれています。

薬売りは言います。

「お蝶さん、ここは閉ざされていると思えば牢になり、出たくないと思えば城になる。

 あなたは、ここを牢獄だと思い込んだ」

自分はこうするしかない、せざるを得ないのだと思い込み、心に毒が溜まるほど がまんにがまんを重ね続けたお蝶ですが、そんな境遇に縛り付けたのもまた モノノ怪と化した自分。

お蝶の本心は 殺され続けてきた犠牲者ですが、モノノ怪のお蝶は いわば自身に対しての加害者なわけです。

そこまでして 自らに犠牲を強いるからには、それに見合うだけの利益がなければなりません。





次に続きます m(__)m