毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

エンドレス・ループ

2015年01月30日 17時15分57秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前の記事に書いた アニメ 「モノノ怪」 の 「のっぺらぼう」 。

解釈がいろいろ分かれると言いましたが、私はというと、最初に見たときは、お蝶さんの思い残しが解けて 婚家を出て行った話だと 当然のように思っていたんです。

むしろ、それ以外の解釈があるなんて 思いもよらなかった。

が、あちこちに どうとったらいいのかわからない描写があり、参考にさせてもらおうと 他の方々のサイトを見て回って初めて いろいろな見方があることを知りました。

そんな中、お蝶さんがすでにこの世の人でなく、モノノ怪に絡めとられた心が映し出す無限ループにはまって 成仏できなくなっている、という解釈と出会ったとき、とてもしっくりきて、以後 私の中ではその見方のほうが大きくなったのです。




ホラーアニメ (そんなに怖くなかったけれどね) から、今回は 見ようによってはますますアヤしい世界に 話が向かいます。

独自の思いひとつで突っ走る勢いです(笑)

そんなのも一興と思われる方のみ、先にお進みくださいませ。

あ、それに今回もけっこうな長さになりそう (たぶんまた分割記事) なので、それもOKという寛大な方のみ どうぞ m(__)m




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ジェームズ・レッドフィールド著 「第十の予言」 という本に、“死んだあとでも目覚めることのできない魂たちが作り出した世界” の話が出てきます。

強い思い込みのうちに生きていた人が、自分の死を認められず、生前と同じ方法で安心感を得ようと 同じ心理が投影された世界を作り出し、同じ場面を繰り返して そこにつなぎ止められてしまう、というもの。

「第十の予言」 は フィクション形式で描かれていますが、その話がやけに生々しく響いたのは、リアルにうなずけるところがあったから。





この話のミソは、死後も意識があるものならば、そこから生まれるものは、死という区切りの前だろうと後だろうと まったく同じ思考パターンにのっとって形作られる、というところ。

生前 他者を脅しつけてエネルギーを奪うやり方に慣れていた人は、死後も 敵意に満ちたいざこざの世界を創り出し、自身を無力な被害者だと思い込んできた人は、依存症的世界に逃避し続け、仕事に過度な存在意義を見出してきた人は、大忙しのオフィスを再現する。

違いは、死後の世界では 時間概念がなくなるので、思ったことが間をおかず すぐさま実現するというところだけ。

そして この死後の世界は、意識が変わって抜け出すまでは 同じ場面が無限に繰り返されるのです。




繰り返しが起こるのは、その人が 生きている間に大きな不安を抱えていて、それを解消できないまま亡くなってしまったから。

不安を感じ続けるのは耐えられないので、みな生きているときから、そこから氣をそらすような さまざまな思考・行動パターンを身につけているわけです。

「第十の予言」 は 「聖なる予言」 という本の続編に当たるのですが、「聖なる予言」 では、このパターンを 脅迫者・被害者・尋問者・傍観者の4つに分け、それぞれに特有な言動の型を コントロールドラマと呼んでいます。

不安から逃れるために 他人をコントロールしようと、無意識のうちに 自分に合ったパターンを選び取り、それにのっとったシナリオを書いて 繰り返し演じ続けているから、ということで。

ドラマを演じるのをやめると 不安がどっと押し寄せてくるので、おおもとの不安が すっかり解消されない限り、どこまでも (死んでからでさえも) 演じ続けるほかないのですね。

とはいえ、死後のドラマは、死を受け入れられないばかりに 生前の光景を無理やり再現したものなので、それ以上発展することなく 同じストーリーを ぐるぐる繰り返すばかりになってしまう。




「のっぺらぼう」 の “お蝶さん死後説” を知ったとき、すぐにこのエピソードを思い出したんです。

お蝶さんが あの世とこの世の狭間で 自ら生んだ無限ループにつながれて 成仏できなくなっているのだとしたら、それは いまだ自分の本心をつかめず、不安定なバランスに囚われたまま 自分を押し殺すクセから抜け出せずにいるのかもしれないな、って。

そこから 前の記事につながるわけですが、それはもう終わったので、今度は また少し違う方に進めていこうと思います。