毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

在る ~ この絶対のこと 

2016年09月28日 08時26分07秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


2ヶ月前相模原市で起きた 障害者施設殺傷事件。

この事件は、見聞きした私たちひとりひとりに 重大な問いかけを提示したのではないでしょうか。

「どんな理由であれ、人の命が奪われていいわけがない、命の値打ちが勝手に決められていいわけがない」 という強い思いの一方で、こういう現象が起きていることも また事実。

事件にまつわる報道を検索してみても その多岐に渡る内容に見てとれるように、誰もが「いいわけがない」 と思いながらも 同時にどこかすっきり割り切れない後味の悪さを感じてもいるのではないでしょうか。




感覚フォーカスを重ねていると、私たちを大きく左右しているように見えるさまざまな感情が、実は確たる存在ではないことに氣づかされます。

その感情のおおもとであるからだの感覚は 見つめられれば消えてしまうほどはかないものであり、どんな根深い思い込みも フォーカスを繰り返していると 感覚という引き金が揺らぐことで どんどん変質してゆくのがわかります。

そんな中で、どれほどフォーカスを重ねても 決して消えないのが 「ある」 という感覚。

なんの主張も圧迫感もなく しんと静まり返っていながら、否定しようのない確かさで 自分はまちがいなく いま ・ ここに “在る” と感じさせてくれます。




このコントラストの世界で 私たちが自身の存在をありありと感じ取れるのは、自分でないものに触れて刺激を受けたとき。

「隻手の音声」 の公案にもあるように、では 外になにも触れるものがないとき 私たちの存在はどうなるのか、ということになりますが、からだの感覚に深く分け入って 見つめ尽くして、幻であるものがことごとく消えてゆく中で どこまでも残るのが この 「ある」 なのですね。

私たちが自分をどのように判断解釈しようと、どれほど激しく否定しようと、この 「ある」 という感覚は 決して消えません。

「ある」 とは “絶対” なんですね。




私たちは、不安に駆られたとき 疑問が湧いたとき、まず言葉で答を探します。

言葉は分け出すものであり、言葉でつかんだ答はすべて 相対的なものです。

善悪、優劣などと 常に二分される答には 人の数だけ異なる基準があり、どれほど突き詰めても 万人が納得できる答は出てきません。

それが、どこまでいっても 確かな拠りどころをつかんだという安心感を得られないフラストレーションを生み出します。




外に答を求めるのをやめて 自身の内側を見つめ、感じて感じて感じ抜き、さいごに残る 「ある」 が 理屈 (言葉) 抜きで腑に落ちたとき、私たちは 絶対の安心に身を包まれ、答が最初から自分の中にあったことに氣づくのでしょう。

そのとき、問題は解決されるのではなく そもそも存在しなかったのだ、存在しないものを 私たちの意識が分け出し 具現化していただけだったのだと知ることになるのでしょう。




事件で亡くなられた19人の方々は、身をもって 私たちに 真実を知る大きな機会を与えてくれた 天の御遣いだったのかもしれません。