“悟り” に憧れがあったころ、悟ると世界の見え方がどのように変わるのか考えたことがありました。
いまとまるっきり違うものが見えるんだろうか。
最近わかってきました。
目に映るものはこれまでと同じ、ただその見方 ・ 解釈が変わってくるのだと。
世界は私の中にある。
そんな感覚が育ちつつあります。
私は私を包み込む世界の中で生きている。
そしてそのすべてが私の内にある。
世界は私の中にすっぽり収まってしまうほどの大きさ、私は世界の内にあって 世界より大きい。
かれこれ十年近く前になるか、熊野の山中を散歩していて 不意に浮かんだイメージがありました。
私のお腹のあたりから出たなにかがどんどん広がり、私ごと周囲の世界をすっぽり包み込んで 再び私の中に戻ってくる。
立体メビウスの輪の無限循環のようなこのイメージは、いま思うと 個の自分 (物語の登場人物) とすべてである自分 (物語の創り手) の関係を表していたようです。
長いこと個の自分の意識だけで生きてきたけれど、それを引きの位置から見つめる視点に氣づいて 少しずつ強化してきた。
この 「見る意識」 が個の意識と同等かそれ以上になると、メビウスの輪の廻りが滑らかになり安定するのでしょう。
貴秋の輪はまだ 「見る意識」 の存在感が弱いためかギクシャクしていますが、それでもすべてが自分の中にあると見ることへのためらいはなくなってきました。
登場人物である私は 物語の世界にどっぷり浸かって喜怒哀楽さまざまな感情を味わっていますが、それを辛い苦しいと感じたら その感覚をじっと見つめます。
そのときの私は 外から観る者 すなわち作者の視点にあり、登場人物の意識から離れているんですね。
だから痛みも苦しみも消える。
作者の視点から見つめられると、どんな心の傷もわだかまりも幻であることが露呈し それ以上留まれなくなるようです。
こうしてたびたび作者の位置から見直すことで 個の意識が変わり、人生という物語の書き替えが可能になります。
このところ 思いを言葉に置き換える作業がなぜか氣が重くてブログが進みませんが、この氣の重さも いま見つめる必要があるものなのでしょう。
目下の最優先は、幻をできる限り手放して 創造者の意識をより拡大させることにあるようです。
まだしばらく更新が滞りがちになるかもしれませんが、氣長にお付き合いいただければ幸いです <(_ _)>