毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

視点が変わると見えてくるもの

2019年07月17日 11時39分22秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「愛する」 という言葉がずっと苦手でした。

愛が動詞になるということがぴんとこなかったのです。

愛とは 「すること」 なのか?

愛したり愛しなかったりと、スイッチを切り替えるようにできるものなのか?




本質的なことは、すべてといっていいぐらい 「する」 のではなく 「起きてくる」 ものなのだと思います。

愛も感謝も尊敬も安らぎも豊かさも “ありよう” であり、 本来動詞にできるものではないのだと。

それを動詞に置き換え 「努力すればきっとできるようになる」 と思わせたのは、マインドのトリックというものでしょう。

だから、「愛が重い」 「うわべだけの感謝」 「平和のために戦う」 なんて矛盾した現象が現れたりする。




「自分の本質は自我ではなくそれを見つめる意識のほうにある」 と認めるのに抵抗がなくなるにつれ、これまで見えなかったものが見えるようになってきました・・・・いえ、霊とか超常現象とかそういうことではなくて (笑)

そのひとつが、ずっとわからなかった 「しなければならないことはなにもない」 という言葉。

「神との対話」 をはじめ あちこちでよく出くわす言葉なのですが、そのころの貴秋は問題山積みで、「しなければならないことがない」 とはとうてい思えなかったのです。

いま思うのは、ここでの 「しなければならない」 とは 「新たにつけ加える」 ということなのではないかということ。

「愛することができるようになろう」 「感謝できるようになろう」 とは、これまで自分に欠けていた愛だの感謝だのという要素を新たに引き寄せ 自身の一部に加えようとするイメージがあります。

が、愛や感謝はそもそも人の本質そのものであり、それがすんなり表に出てこないのは 遮っているものがあるというだけのことなんですね。

だからそれを取り除きさえすればいい。

彫像製作でも遺跡の発掘でも 完成形は製作者 ・ 作業者の内にすでに存在しており、それ以外の部分を取り除いてやれば やがて外の世界にも姿を現します。

取り除く作業を 「しなければならないこと」 とみることもできますが、その場合のそれは 足し算ではなく引き算です。

だから、「しなければならない = つけ加えなければならない」 ことはなにもない。

そんなふうに見えたとき、「しなければならないことはなにもない」 がやっと余すところなく腑に落ちました。




自我からもっと大きな意識へと重心が移るにつれ、これまで死角にあって見えなかったものが 次々姿を現しつつあるようです。

そんな 「見えてきたもの」 について、これからも少しずつお話ししていければと思います。







p.s. 

  しばらくお休みしているあいだに ブログに大幅な変更があったようですね。

  リアクションボタンというものができて、どなたがどのボタンを押してくださったかが編集画面に出るようになったのですね。

  これ、とても励みになります。

  おかげさまで 少しずつでもまた書けるようになってきました。

  押してくださったみなさま、ほんとうにありがとうございます。