15日にアップした 「世界より大きい私」 で 「目に映るものはこれまでと同じ、ただその見方 ・ 解釈が変わってくる」 と書きましたが、正確には これまでとまったく同じ視点にこれまでと見方解釈が異なる視点が加わり、二つのあいだを行き来する感じです。
たとえば、映画やドラマの悲しい場面が胸に迫り 涙する。
これはストーリーに入り込んで同化した個の視点です。
そうして胸痛むものを味わっていると、不意に意識がすっと引いて それを眺めているもうひとつの視点が言うのです、「すてきだよね こんなふうに泣けるって。からだや五感や感情があって初めてできることだよね」 と。
するとむせび泣いていた心の乱れがすぅっと落ち着き、味わいたかったものを十分味わった満足とともに 物語の世界から抜け出してもとの自分に戻ります。
まだ残っているからだの違和感は、ゆっくり呼吸しながら見つめていれば やがて収まります。
魂の望みどおり からだをもってさまざまな体験をし、さまざまな感情を味わう。
個の視点だけでもこれはできるのだけれど、困るのは 否定的体験にはまりこんだまま抜けられなくなったとき。
さんざんな目に遭い 疲労困憊し、どうにか事が収まってひと息つくと、また同じような事態に見舞われる。
おおもとである自身の否定的観念を手放すまで、それは繰り返されます。
引きの視点を併せ持って初めて、ネガ観念もネガ体験も確実に終らせて 先に進むことができます。
引きの視点が加わって、自分のからだや五感の世界を以前より愛おしく思い 大切にするようになりました。
これらがまさしく私たちを楽しませるために与えられた贈り物だということが よくわかったからです。
内的探究に没頭していたころは どちらも疎ましいものでしかなく、こんなものがなければこんなにつらい思いをすることなくさっさと至高の世界にたどりつけるのにと しょっちゅう苦々しく思っていました。
でもいまは、これを使わせてもらっているからこそ 魂が望んだとおり 本来の自分ならざるものも含めていろいろなことを体験的に知ることができるのだと、事あるごとにうれしくありがたくなります。
度重なる感覚フォーカスの果てに貴秋が受け取ったのが、新しい (といってもほんとうはもとからあったのだけど) 第二の視点。
できれば避けていたいような感情や感覚に 来る日も来る日も進んで身をさらしてヘトヘトになり、それでいてこれがうまくいく保証はなにもない、そんな不安でいっぱいの日々をがんばって過ごしたご褒美のようなものかなって思っています (^^)