毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

観照者

2016年05月18日 17時48分13秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


だいぶ前にここで書いたと思いますが、家の近くの山を散歩していて ふとひらめいたビジョンがありました。

お腹のあたりから 自分のからだの枠を超えて なにかの 「場」 とでもいうようなものが ぐんぐん広がって あたり一面をおおい、自身もその中にすっぽり包み込まれ、その包み込まれた自分のお腹からまた場が広がって・・・・というイメージ。

自分を起点とする 立体メビウスの輪みたいなものかな☆

今これが、一瞬のイメージから 生々しい手応えを感じるリアルへと変貌しつつあります。




もう手垢がつくぐらい使ってきた 「外に見えるものは 心の内の投影」 という言葉、最初は情報でしかなかったこれが すとんと腑に落ちると、自作自演のドラマの世界しか知らなかった出演者から、ドラマの鑑賞者、さらに製作者へと 立場が変わり始めるようです。

「見えて聞こえて触れられるこの三次元世界が 存在するすべて」 という思い込みは、ドラマの内以外の世界など思いもよらず、外に出るも出ないもない状態。

すべてと思っている世界が、実はほんのわずかな一角に作られた お芝居のセットみたいなものに過ぎず、外側にはまったく別の場が展開していて、監督やプロデューサーやスタッフたちが 「ここもうちょっと手直ししたほうがよくない?」 な~んてやってるんだと氣づいたときには、すでに受身一方の演者の立場ではなくなっています (^^)v




古い感情の記憶を揺さぶるスイッチが入ったと氣づいて、からだの感覚に焦点を合わせたとき、視点が 「演者」 から 「鑑賞者」       いや むしろ 「観照者」 だな      のそれへと変ります。

無心に見つめることで からだの感覚がすぅっと消えてゆくのは、「感じる人」 から 「見つめる人」 へと焦点が移り、「痛みを感じる人」 ではなくなるからなんですね。

今になってわかりましたが、感覚フォーカスをひたすら続けてきたことは、すっかり忘れていた観照者の視点や 外の世界の存在を思い出させ、再確認させてくれていたのです。




感覚フォーカス、すなわち 「言葉の類をいっさい使わず 感じるものを 無心に眺める」 という行為は、自分の想念が自分の世界を創っているという信念を 事実認識へと押し進めてくれました。

ちょっとした出来事をきっかけに呼び覚まされた記憶から からだの感覚が湧き起こり、しかし 見つめることで それ以上形になることなく消えてゆく。。。。その一連を何度も何度も繰り返すことで、感覚というスイッチを介して 古い記憶から生まれた感情が 同じパターンの物語を いくどとなく創り上げてゆくさまが見てとれ、さらに 起点である感覚を 感情と切り離せば、物語も存在し得ない、つまり 私が 自分の世界のすべてだと思っていたものは、自分の不安や怖れや痛みの記憶が創り上げた 蜃気楼のようなものに過ぎなかったことを知りました。

言い換えると、私が現実だと思っていた世界は、その中に存在する “ちっちゃな私” 込みで すべて 思い込みに彩られた私の意識そのものだったのです。

私は その世界に属する者であると同時に、その世界を呼び出し 形作る者でもあったのです。

私が創った世界が 私をおおい、その中に取り込まれた私が 再び 自分の意識から 自分を取り巻く世界を創り出し、またその中に取り込まれて。。。。これが、あのときふと垣間見た立体メビウスの輪の正体だったのです。

そして、観照者の視点から そうやって自分の属する世界を自分が創っていたことに目覚めると、自分が 出演者でありながら、同時に自分の世界を好きなように生み出すことのできる創作者でもあることを思い出し、眠っていた力を使いこなすチャンスを手にします。




“自分の世界は 自分が創っている” 

この言葉が 知識や情報から “腑に落ちる” という段階を経て 自分の血肉となると、忘れていた力を駆使することで 世界が大きく変わり始めます。

存在すら忘れていた耳の筋肉の使い方を思い出せば 耳が動かせるようになるという あの 「僕は耳を動かすことができる」 の話のように。

自身が創り手であったことを思い出した者の世界に、思い出すもの 解いてゆくもの 越えてゆくものはあっても、絶望や挫折はもう存在しません。

観念ではなく 実感として、そう言い切っていいような氣がしています (*^-^*)























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