Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

オアシス

2010-02-03 | 外国映画(あ行)
★★★★★ 2002年/韓国 監督/イ・チャンドン

「心は自由だ」


「こんな映画を作って何の意味があるのか」という意味論争は全く不毛だと常々思っている。絵画にしろ、文学にしろ、表現されたものは、表現者が表現したいから存在するのであって、そこに意味が有るか、無いのかを第三者がとやかく言う筋合いなどない。観る者は、ひたすらに享受するだけの存在。ただ、つまらなかったと言えばいいのだ。ところが、そんな私も俳優が障害者を演じる作品については、しばしばこの信念が揺らぐ時がある。大抵のそうした作品の場合、障害者の方々の苦労や社会制度の不備などを伝えることがほとんどで、そうした作品を見ると、「そこまでして伝えたいのなら、ドキュメンタリーを撮ればいいじゃないか」とつい思ってしまうのだ。

ところが、この「オアシス」という作品は、従来の障害者を描いた作品とは、何もかもが違う。間違いなく、100%、俳優が演じなければ伝えられない作品なのだ。この、まるでコペルニクス的転回は、ご覧になった全ての方が息を呑んだであろう、コンジュが車椅子から立ち上がり、ジョンドゥと戯れる一連のシークエンスだ。車椅子に縛り付けられていても、コンジュは果てなきイマジネーションの世界でジョンドゥと自由に歩き回り、彼の肩にもたれかかり、つまらない冗談を言い、笑い合う。それが想像の世界であることから、実現できないことであるから、悲しい思いにとらわれる方もいるのかも知れない。でも、私は逆だ。全ての人間の心は自由だ、という清々しい思いが私の中を駆けめぐる。誰も人の心を束縛することなどできはしない。コンジュの夢想は、コンジュを優しく包み込み、生きる糧となっている。私にはそう思えて仕方ないのだ。

周囲の理解も得られることもなく、ふたりが追い詰められるほどに、この「心は自由だ」というメッセージは、暗闇の中の光のようにきらめく。思えば、冒頭コンジュは手鏡に反射する光を白い鳩に見立てていたではないか。そして、ジョンドゥを失っても、午後の日差しが入る部屋でコンジュはまた美しい夢想に浸るに違いない。それを想像する時、私の心には温かいものが込み上げる。

それにしても、車椅子から立ち上がる、あの一瞬。もう、私の心臓はバクバクして、どうしようもなかった。日常生活のシーンはもちろんのこと、ムン・ソリの演技には脱帽。特典映像を見ると、無理な姿勢から体を壊したというではないか。ソル・ギョングにしたって、チック症状を伴う落ち着きのない素振りがあまりに自然で、驚くばかりだ。主演ふたりの演技者としての底力にも圧倒された。