Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

告白

2011-03-06 | 日本映画(か行)
★★★★☆ 2010年/日本 監督/中島哲也

「狂人たちのダンス」

原作を読んだ時はなんてつまらん、と思いました。最初の女教師の告白が短編で賞をもらったのでしたか(詳細は忘れましたが)、それで何とか後を繋げるために、いじめだの、ネット殺人予告だの流行の暗いネタをぶち込んで、何とか長編に仕上げた、つぎはぎだらけのおそまつな小説だと思いました(原作ファンの人、ごめんなさいよ)。しかも、このあまりに暗い話が本屋大賞とは、世も末だと思った次第です。なので、映画館に行く足も鈍ってしまったわけですが、映画の方は中島監督の離れ技でとんでもないエンタメ作品になっており本当に驚かされました。

エイズ、いじめ、殺人というネガティブモチーフの全てをエンターテイメントにしてしまう。その思い切りの良さに完敗です。世の人々がひそひそと声を潜めて語り合うテーマを、娯楽映画のパーツと見立てる。いや、エイズにしろ、いじめにしろ、我々日本人は、できることなら声高に語りたくない、避けて通りたいという、「逃げ」の精神に対する挑戦状のように感じます。挑戦状を突き付けるのならば、ド派手に相手の度肝を抜くようなやり方でなければ。
いや、小手先の挑戦状では挑戦状と受け取れない。それほど、我々の感覚は弛緩しているということかも知れません。

原作を読み終わった時のもどかしさ、気持ち悪さは、中学生が主人公であることに大きく関係しています。ここで描かれている中学生はみんな自己中心的で、思慮もなく、他人へのいたわりもなく、彼らが大人になるのかと思うだけで絶望的です。彼らを我々大人はどう捉えればよいのか、そういう視点が原作には無い、ただ中学生が殺人を犯すというスキャンダルな側面だけを利用した小説である、という読後感。では、映画はどうか。ガス・ヴァン・サントが少年達に向ける視点とは明らかに違う。私は彼らへの距離感、その冷徹な視点に相米慎二監督を重ねてしまう。

この中学生たちが繰り広げる絶望的な行為の数々から何を感じ取るかということ。それは本当に人それぞれで、そこにはもちろん痛みや悲しみもあるわけですが、もう君たちは狂っているんだよ、ときちんと正面から誰も言わない、言えない世の中なのではないかということ。ちょっと過激かも知れませんが、まだ何とかなる、きっといいことがある、そんなおためごかしを我々大人は何年も何年も言い続けてきて、このザマ。根拠もなく、何とかなるんだ、と言い続けることは、相手をひとりの人間としてみなしていないことに他ならない。
他人を貶め、他人を裏切り、他人の命を奪うことに、中学生としてではなく、ひとりの人間として正面から対峙せよ、ということではないかと感じるのです。

もちろん、正面から対峙することが女教師森口のように「復讐せよ」ということではないですね。大人代表として描かれるのは女教師森口、生徒の母親、後任新人男性教師で、それぞれ「復讐する」「溺愛する「媚びる」というやり方でしか中学生に向き合えない。それらは、中島監督の手腕によって、まるでギャグマンガのごとく描かれており、このギャグテイストこそが痛烈な自己批判を観客に促しているように感じます。
そして、「父親不在」というメッセージも強く込められてはいないでしょうか。

それにしても、KY教師を生徒たちが嘲笑い、担ぎ上げるシーンでKC&the Sunshine Bandの「That’s the way」で踊らせるというブッ飛びアイデア。これは、中島監督にしか出せませんね。次作はどんな驚きが待っているのか。ドラマ「TAROの塔」で岡本太郎がこう言ってましたよ。驚きは感動に他ならない、と。